ハザマ雑記

二極の狭間に漂う者の哲学

私と貴方ではカメラの構え方が違った

皆さん無病でいらっしゃいますか。どうも、Rの男です。
 
一週間、更新が空いてしまいました。大変申し訳ございません。
当ブログの熱烈なファンの方[要出展]、「心配だよ」という声を寄せてくださった方々[要出展]、「大丈夫ですか?」とメールをくださった方々[要出展]にこの場を以てお礼を申し上げます。
 
ブログを始めたきっかけの一つに「習慣付けるのが苦手な己を律す」というものがあったのですが、今思えば初めは毎週木曜日に更新するつもりだったものが次の週には金曜日にズレていた時点で律せていませんね。
そもそも冷静に考えてみれば私の身の周りには面白い事象(この場合の"面白い"は主に"funny"のことを指しています)が頻発しません。あれ、もしかして私ブログに向いてない……?
……まあそういうことは考えないようにします。
 
 
こんなでも一応日記系のブログなので、今日はリアルタイム性のある記事を書こうかと思います。
 
”リアルタイム性”を実感するのに最適なもの。それは間違いなく「流行」でしょう。
(すこし話は逸れますが)企業系メディア――テレビだの新聞だのはよく「次の流行はコレだ!」みたいな特集をやりますが、アレって冷静に考えたらちょっとおかしいですよね。"流行"って読んで字の如く”流行りもの”を指す言葉ですから、既に世に名が広く知られてなければいけないと思うのです。
実際テレビや新聞は己の発信力をウリにしているハズなので、「次の流行」なる矛盾にも近い言葉はある意味でその媒体の発信力の自信の表れとも取れますね。
当たり前ですが、発言には責任が伴います。良識のある発信者は己が誤った情報を広めてしまったと気付いた時には謝罪もしますし訂正もするでしょう。それがもしお金を貰ってやっているものなら尚更です。
でも私はテレビや新聞がしばしば大声で喧伝する「次の流行」発言が的外れだった時、後に謝罪・訂正をしているところを見たことがありません。こういう時は素直に「流行らせたかったのに流行りませんでした。すいません」と言ってほしいです。
 
まあそんなわけで、こんな私でも知っているものこそが真の流行でしょう。それは何か。そう。コロナウイルスですね。
え、「"流行り"のベクトルが違わないか」って?いえいえ、そんなことはありません。
新聞でも、テレビでも、ネットでも、メディアを見れば必ず何処かに関連する記事があるはずです。実際問題、世界中を震撼させているのですから、これは名実共に"流行"と言って間違いないでしょう。
さて、それではニュースを見てみましょう。本当にどのメディアのニュースでも構いません。どうでしょう。真っ先に目に入るのは「感染者 新たに○○名」みたいな記事じゃないですか?
 
これ、私、初めて見た時に「え、何言ってんだ」と思ったんです。
何故かって、コロナウイルスが今こんなにも注目の的になっている最大の理由って、確か「恐怖の殺人ウイルス」だったからですよね?(記憶違いでしたらすみません)
じゃあ取り上げるべきなのは「コロナウイルスを原因とする死亡者 新たに○○名」じゃないですか?「感染者数」に注目した報道をするのであれば、今まさにコロナウイルスの陰に隠れて侵攻しているインフルエンザの患者数もコロナウイルスと同様の記事サイズで報道しなければならないと思うのです。インフルだって同じように罹患した人が死亡する例もあるわけですから。
 
……と、ここまで読んでいて「いやいや、感染者数も重要でしょ」と思った方もいらっしゃると思います。
別に"感染者数"という指標を軽視しているわけではありません。
私のしたかった話は「一つの事象に対してのフォーカスが人によって(結構)違う」という話です(こう書くと至極当たり前に聞こえますね)
ネット上でコロナウイルスに関する話題を見ていると、各々が注目しているポイントは
①感染者数
②死亡者数
③医療体制
の3つに分かれていることに気付きました。
①は読んで字の通り、「どのくらいの人間が感染したか、どの地域で新たに感染者が見つかったか」ということ、②は「どこで、どんな(どこの国籍で、何歳の)人が、何人死亡したか」ということ③は「医療崩壊への不安、自分が罹患したとき、病院はちゃんと扱ってくれるのか」ということに注目している人です。
 私は記事中盤にも書いた通り、に重きを置いているので、別に感染しても死ななきゃ構わないくらいに思っているんですが(こう文字に起こしてみるとメチャクチャ利己的ですね、独りよがりなのが露呈してます)、報道の様子を見ていると企業系メディアはを重視しており、ネット上の書き込みを見るとが最も多く、が次いで多いといった感じでした。
 
に的を絞っているテレビだの新聞だのは(私のような一般人が議論できる場ではないので)置いておいて、ネットだと各々重視しているポイントが違うので論戦になった際に話がかみ合ってないんですよね。みんな一様に怖がっているのに、怖がり方が違うものだから建設的な議論になっていない。傍から見ているとちょっと奇妙です。
 
同じものを取り扱っているのに、各々の「カメラの構え方」が違うので、写った側面が全然違っているという現象の好例だなと思ったので、思わず記事にしてしまいました。
 
今回、全然URLの引用も画像も使いませんでしたね。読みにくくてすいません。次の記事は笑えるやつにしたいと思っています。できたら。
 
くれぐれも感染しないように、ご自身の体調管理をしっかりなさってくださいね。
それでは次の記事でお会いできれば幸いです。またね。

Pokemon Homeに己の検索能力の無さを嘲笑われた話

皆さん息災でいらっしゃいますか。Rの男です。
ブログ、本当は毎週木曜日に更新するつもりだったんですけどこのままでは毎週金曜日更新になりそうです(読者からしたらどっちでもいい話ですね)。自分が己に対して定めた法や制約には背かないほうがいいと思います。ヘンな負け癖が付きますから。
 
先日、Pokemon Homeがリリースされましたね。
 
 
(平たく説明すると過去の作品からポケモンを送ってきたり、現行のポケモンをより沢山収納しておける拡張ストレージみたいなものです)
リリース日が一度伸びていたので(公式サイトのリリース日が2月上旬から2月中旬になっていました)、ちゃんと中旬にリリースされるのか不安に思っていたのですが無事発表されたのでホッとしました。
ところでこのPokemon Home、課金要素がありまして、年額約2000円払うと使えるボックス数(ストレージ容量みたいなものです)がメチャメチャ増えたり、各種便利機能が解放されるんですよね。割とポケモンを遊んでいる人からしたら機能解放はほぼ必須なので、私も課金してフルパッケージを使おうと思ったんです。
 
そこで事件は起きました。
 
どんなえらい事件かという話をする前に"Nintendo Pripaid"について説明しておきましょう。
Nintendoには"Nintendo Pripaid"なるものがありまして、これを使ってソフトをダウンロードパッケージで購入したり、ソフトのDLCを購入したりできるんです。
 
 
勿論この"Pokemon Home"の機能解放にもこのNintendo Pripaidを購入して行うんですが、なぜかコンビニに2000円分ピッタリのNintendo Pripaidカードが売ってないんですよ。
公式サイトを見ると、どうやら2000円のカードの存在自体はあるみたいなんです。
 

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近所のコンビニを端から端まで探したんですけど「1500円」「3000円」「5000円」「9000円」の四つしか置いてないんですよね。困りました。一体どこにいるんだルイージ
うーん、どうしようか…というところで私は”あること”を思い出しました。
 
「そうだ…ファミマならFamiポートでプリペイド購入ができるじゃないか…」
 
そうなんです。ファミリーマートに設置してあるFamiポートを使えば、各種プリペイドの購入ができるんです。これを使えば2000円分のプリペイドが購入できます。
 
 
ということで、早速一番近いファミマに行って、発行してきました。Webmoney2000円。
 

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※プライバシー保護の為一部を黒線で隠しています
 
どうしてWebmoney?と思う方がいらっしゃるかと思いますので説明しておきますと、Webmoneyを経由すればNintendo Pripaidが購入できるんです。そもそもFamiポートではNintendo Pripaidが購入できないので、まずWebmoneyを購入、そこからNintendo Pripaidに変換するというワケですね。
 
己の知識をフルに利用した戦略。我ながら見事の二文字に尽きます。
 
よし、Webmoney 公式サイトに行ってNintendo Pripaidを購入しよう。
 

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…ん?
 

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…??
 

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え!?
 
なんということでしょう。コンビニで購入したWebmoneyシートでは、Ninendo Pripaidを購入することができません。
 
いやしかしおかしい…確か昔気まぐれでWebmoneyのサイトを訪れた時には、確かに対応お支払い方法がもっと沢山あったんです。もしかして見てるページが間違ってるのかな…と思ってよく読んでみたら…
 

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(♪甘き死よ、来たれ)

www.youtube.com

 

どうやらこの2019年2月のタイミングで仕様が変更され、支払い方法が限定されてしまったようです。完全にやらかしました。古い記憶ばかりを辿って現行の仕様を確認しなかったばっかりに…

仕方ないのでもう一度コンビニに行って、マリオを買いました。

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実を言うとポケモン剣盾のDLC(約3000円)をまだ購入していなかったので、まとめて買いました。最初からこうすればよかった。

 

読者の皆々様はどうか己の古い知識や記憶、勘をアテにし過ぎず、今一度懐疑し、しっかりと調査した上で行動して頂ければ幸いです。これ以上犠牲が増えていくのを、私は見たくありません。痛手を負うのは私一人で十分です。

 

また次の記事でお会いできれば光栄です。それでは。

 

~おまけ~

 

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FamiポートでNintendo Pripaid売ってた~~~~~~~~~~~~~~~~~

出来損ないの”or should I?”(が、ならざるべきか?)

(本当は昨日に書き上げたかったけれど、ちょっとオーバーしてしまいました)

 

――記事を書き始めるにあたって、カッコのいい表題を付けようと思ったのですが、イマイチ格好ついてないですね。表題の威勢のよさと内容が噛み合ってるかどうかの自信もそんなにありません。

外面と内面を共に充実させることって、実際とても難しいことだと思います。

例えば自分は”解ってる”人間なんだ、と思わせたい。そういう思いが先行して”エビデンス”だの”アジェンダ”だの”レジュメ”だのと言ってみたり、「中身を説明しないと通じないような法則」を持ち出してみたりする。

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そもそも日本語でおk…って思ったりしませんか

 冷静に考えてみればそもそも言葉とは「通じる」ことこそが重要だと思いませんか?少なくとも私はそう考えているので、こういう一聞しただけではその言葉の意味する事柄が把握できないのではその言葉をチョイスする意味がないのでは?と思ってしまうのです。(ただし摩訶不思議な言葉で相手をケムに巻くためにその言葉を選んだのであれば、その目的は達成されているのかもしれませんが)

格好つけたが故に内面がついてこない。

逆に中身を充実させんがために文章ばかりを何行も何行も重ねて己が思いを吐露したりしてみても、それがすぐ大衆に解されることはないでしょう(というか最後の一文字まで読まれないんじゃないでしょうか)。

それは短く纏まっていないことが原因であるかもしれませんし、絵も図も使ってないせいでキャッチーさが足りないのかもしれませんし、最後まで読まれない理由は読み手によってさまざまだと思いますが、共通しているのは「触りがよくなかった」ことにあるんじゃないかと思います。

密度を意識するが故に外面がついてこない。

本当に大衆の理解を得たいのであれば、外面も内面もほどほどでよいのだと思います。

武装しすぎると引かれますからね。

あ、『「中身を説明しないと通じないような法則」を持ち出してみたりする』ことと『中身を充実させんがために文章ばかりを何行も何行も重ねて己が思いを吐露したりしてみ』ることに関して言えばあれですね、完全にブーメランです。

 

(この書き出しを膨らませたらもう一記事書けたかな)

 

さて、本題に入って…

この記事のタイトルにある「or should I?」というフレーズは元々アニメ「攻殻機動隊 Stand alone complex」第11話「亜成虫の森で PORTRAITZ」に登場するものです。

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14分7秒辺りに登場します

 この一文の訳としては作中の通り「僕は耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた。が、ならざるべきか?」となるわけですが、そもそもこれ、J・D・サリンジャー著「ライ麦畑で捕まえて(原題"Catcher in the Rye")」の一節を引用したものなんです。

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 (私が初めて「ライ麦」を読んだときは確か村上春樹訳のものだったので、このフレーズはこの訳そのままではなかったような気がします。当たり前だけれど)

 

しかしながら"or should I?"つまり「が、ならざるべきか?」という部分は、原文には登場しません。つまり作中に登場するキャラクターが「ライ麦」の一文に書き加えたものなんですね。

「僕は耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた」という一節。「ライ麦」からの引用。「が、ならざるべきか?」という加筆。そして「加筆した」ということ。

これら全てが、作中におけるテーマに大きく関わってくるのですが、そちらの話をし始めるととんでもねえ文字数になってしまうので、今は避けておきます。

 

「が、ならざるべきか?」。

 

人なら誰でも、常にこの言葉と無意識的に付き合いながら生きていると思います。

みんな常に、何か――今の自分とは違う何かしら――になろうとしているものです。意中のあの人と話したいなあとボンヤリ考えているときも、何か事業を興そう!と奮起しているときも、多分頭のどこかしらに「が、ならざるべきか?」がいるわけです。

 

人、特に大人って慎重で保守的なんですよね。20年以上も生きてますから、それまでに経験した数多の失敗から自ずと慎重にならざるを得ないんだと思います。だから「現状を脱したい」という思いが大小問わずみんな頭のどこかしらにあって、それでいて現状を脱することに対する抵抗感――例えば不安とか恐怖心とか――が首をもたげている。

失敗することというのは本当に怖い。「子供のうちに沢山の失敗を経験しておいたほうがいいよ」というのは、本当によいアドバイスだと思います。それは別に年齢と失敗に対する恐怖心が比例してるって話じゃなくて、子供には失敗を咎めてくれる人も、許してくれる人も、慰めてくれる人もいるわけですからね。

 

ここ数年、更に「が、ならざるべきか?」と格闘しながら毎日を過ごしてきたので、ついにはこんな記事を書いてしまいました。

思い返してみれば、これって往々にして杞憂なんですよね。考えすぎて停滞してしまうくらいならいっそ振り切って行動したほうがいいんだと思います(私の浅い浅い人生観からそう思ってるだけですよ!)。「しない後悔よりする後悔」って言うくらいですから。

…当たり前ですね。そんなこと。上手くやってる人って、きっとみんな分かってるんだと思います。

 どうでしょう、外面(=表題)と内面(=記事)、釣り合ってました?

 

そのうち「攻殻機動隊」の考察でも書こうかな。

……が、書かざるべきか?なんてね。

 

では次の記事でお会いしましょう。じゃあね。

私は”140文字の制約”から逃げた

(こんなタイトルですが、内容としてはブログを始めるに至った経緯の話です)

 

 文字をつらつらつらと綴るとき、常に脳裏を過り続けるのは「果たしてコレが誰かの目につくのだろうか」ということばかりです。それはかつて私が小学校を卒業する際に教室の端に残した些細なラクガキであっても、私が気まぐれで綴った小説や詩、短歌であっても、不定期なツイートの一つ一つであっても、このブログのこの記事であっても同じであります。何が言いたいのかと言われれば、私は文章の長短に関わらず常に誰かが読んでくれているだろうか?ということを意識しているということであります――

 

記念すべき一発目の記事の掴みがこんなものでよいのでしょうか(恐らくよくないですね)

皆さんはTwitterをやっていますでしょうか?正確には、”ツイート”なる行為をしてらっしゃいますでしょうか?私は細々とやっております。

熟考するたびにTwitterとは大変面白いものであるな、と思います。使い方次第で「コミュニケーション・ツール」にも、「情報を発信する場所」にも、「受信する場所」にもなりうるわけですから。(ところで、カタカナを中点で区切ると”ソレ”っぽく見えませんか)

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どうでもいい話なんですが試験に使われる論説文ってやたらとカタカナを中点で区切りますよね。なんで…?

私みたいな一介の俗人は友人の近況報告を見たり、TLに流れてくる漫画だの写真だの絵だのに目をしばたたかせながら毎日を過ごしています。

Twitterのウリはなんといってもその手軽さにあると思います(正確に言うならば、Twitterという空間が思ったことを形そのまま手軽に呟いてもよい場なんだと思います)。それ故に一切合切洗練されていない言葉の並びが毎日毎日私の元へぞろぞろ届きます。(別に馬鹿にしてるわけじゃないですよ)

例えば「○○が美味い」とか、「□□、すげえ面白い」とか。実に平和でよいですね。和みます。

一方で、これでもかというくらいに洗練して、言葉を選んで、ツイートしている人もちらほら見かけます。数にして140文字という制約の中で可能な限り己の伝えたいことを、主張のエッジを損なうことなく文字に起こして広大なネットの海へぶん投げているわけですね。こういった類のツイートを見ると、その人の熱意と語彙力に関心することがしばしばあります。

私はこの二者の温度差を何より楽しんでいます。決してどちらが劣っている…という話ではなく、こういった対極にあって然るべき文章が一つの空間に共存しているということが面白いんですね。

 

さて、この記事の本題は別にTwitterのどこそこが面白いナアという話ではないのです。

140文字。私はこの制約に背を向けて、尻尾を巻いて逃げたという話なのです。

(本題に入るのが遅いと仰いますか?私もそう思います)

 

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ロートレアモン全集(栗田勇 訳)』マルドロールの歌 第一の歌 より

 

 どうも私というものは数字に弱いので、上の画像の文章(『マルドロールの歌』の書き出しですね)の文字数が140文字から更に87文字もオーバーしているとは思っておらず、この画像をスクリーンショットする際に驚きました。140と聞くとかなり多いように聞こえませんか。なんたって三ケタもありますから。しかし実際、この数字は”文章”という単位で考えるととても短いのですね。粋な文章の書き出しのその総てを納められないくらいのサイズなのです。

では視点を変えて、”呟き”という単位から140文字という数字を見つめると、これは大変大きい数字になります。前述の「○○が美味い」という呟き。例えば○○に実在のお店の名前と飲み物を当てはめて「スターバックスダークモカチップクリームフラペチーノが美味い」としてみても、たったの30文字です。(因みに私はスターバックスダークモカチップクリームフラペチーノを飲んだことがありません。美味しいの?)

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https://www.starbucks.co.jp/customize/menu.html より)

つまり、日常の些細な出来事を呟くのに、140という数字は余裕も余裕というわけです。日本語のフレキシブルさがこれでもかというくらいに現れていますね。

 

文章という観点から見る140文字という制約。

呟きという観点から見る140文字という制約。

 

私が書きたいのは文章であります。即ち、140文字という制約は私にとってあまりにも窮屈でありました。余りにも足りません。そうか、私は140文字に納まる器ではないということか…!とまで思いました。

ですが、文壇の面々の呟きなんかを見ると、見事に140文字の制約の中で巧みに言葉を紡いでいるんですね。読んでみると文章でありながら呟きの側面を失ってないんです。

 

そういえば、少し前(一年ほど前だったかな)に、『54文字の文学賞』というのが流行っていた記憶があります。

www.php.co.jp

(調べたら2018年初めの企画でした。時間が進むのは早いですね)

当賞の入賞作品を見てみると、作者の発想力や世界観、着眼点に関心するばかりですが、なんといっても日本語の持つ”圧縮力”に驚きます。

たった54文字でも、まるっと一つの世界を形成できるんです。

 

読ませる文章というものは140字では構築し切れぬという私の主張には、悲しきかな大量の反証が存在します。

――

「このブログを作ろう」と思ったのは、私が言いたいことを140文字以上で書きたいと思ったことに端を発します。最初は思ったことなんかのあれこれもTwitter上で書こうと思っていましたが、駄文・長文・散文の三重苦文をタイムラインに流してしまうと、多分ジャマだろうな、と思ったからというのも理由にあります。

と、こう書くと至極真っ当な使い分けでブログを始めたように見えますが、実際は140文字という制約の中で己の書きたいことを”読ませる文章”に仕上げて呟くことができないなと思ったからというところが大きいです。

 冒頭にも書いた通り、私は常に発信力――即ち文章を読んでもらえているかなと考えること――ばかり気にかけて文章を書いています(この場合は”打ち込んでいる”ですね)

折角書くのなら、読んでほしい…というエゴを抱いてこの文章を書いています。

 

書きたいという純然な気持ち。読んでほしいという邪な思い。そういう二者のハザマで”自己存在の意義”という永遠のテーマに足掻きつつあれこれと書くことになるだろうな、と思ったので、ブログタイトルを『ハザマ雑記』としました。どうか読んでください。さすれば私は幸せです。

 

どんなブログなの?という話をしようと思ったのに、随分長い文章になってしまいました。多分数時間して読み返してみたなら、あちらこちらの粗に気付いて、悶々とするでしょう。初めての記事ですから、どうか温かい目で看過してください。

 

それでは別の記事でお会いできれば光栄です。さらば。