私と貴方ではカメラの構え方が違った
Pokemon Homeに己の検索能力の無さを嘲笑われた話
どうやらこの2019年2月のタイミングで仕様が変更され、支払い方法が限定されてしまったようです。完全にやらかしました。古い記憶ばかりを辿って現行の仕様を確認しなかったばっかりに…
仕方ないのでもう一度コンビニに行って、マリオを買いました。
実を言うとポケモン剣盾のDLC(約3000円)をまだ購入していなかったので、まとめて買いました。最初からこうすればよかった。
読者の皆々様はどうか己の古い知識や記憶、勘をアテにし過ぎず、今一度懐疑し、しっかりと調査した上で行動して頂ければ幸いです。これ以上犠牲が増えていくのを、私は見たくありません。痛手を負うのは私一人で十分です。
また次の記事でお会いできれば光栄です。それでは。
~おまけ~
FamiポートでNintendo Pripaid売ってた~~~~~~~~~~~~~~~~~
出来損ないの”or should I?”(が、ならざるべきか?)
(本当は昨日に書き上げたかったけれど、ちょっとオーバーしてしまいました)
――記事を書き始めるにあたって、カッコのいい表題を付けようと思ったのですが、イマイチ格好ついてないですね。表題の威勢のよさと内容が噛み合ってるかどうかの自信もそんなにありません。
外面と内面を共に充実させることって、実際とても難しいことだと思います。
例えば自分は”解ってる”人間なんだ、と思わせたい。そういう思いが先行して”エビデンス”だの”アジェンダ”だの”レジュメ”だのと言ってみたり、「中身を説明しないと通じないような法則」を持ち出してみたりする。
冷静に考えてみればそもそも言葉とは「通じる」ことこそが重要だと思いませんか?少なくとも私はそう考えているので、こういう一聞しただけではその言葉の意味する事柄が把握できないのではその言葉をチョイスする意味がないのでは?と思ってしまうのです。(ただし摩訶不思議な言葉で相手をケムに巻くためにその言葉を選んだのであれば、その目的は達成されているのかもしれませんが)
格好つけたが故に内面がついてこない。
逆に中身を充実させんがために文章ばかりを何行も何行も重ねて己が思いを吐露したりしてみても、それがすぐ大衆に解されることはないでしょう(というか最後の一文字まで読まれないんじゃないでしょうか)。
それは短く纏まっていないことが原因であるかもしれませんし、絵も図も使ってないせいでキャッチーさが足りないのかもしれませんし、最後まで読まれない理由は読み手によってさまざまだと思いますが、共通しているのは「触りがよくなかった」ことにあるんじゃないかと思います。
密度を意識するが故に外面がついてこない。
本当に大衆の理解を得たいのであれば、外面も内面もほどほどでよいのだと思います。
武装しすぎると引かれますからね。
あ、『「中身を説明しないと通じないような法則」を持ち出してみたりする』ことと『中身を充実させんがために文章ばかりを何行も何行も重ねて己が思いを吐露したりしてみ』ることに関して言えばあれですね、完全にブーメランです。
(この書き出しを膨らませたらもう一記事書けたかな)
さて、本題に入って…
この記事のタイトルにある「or should I?」というフレーズは元々アニメ「攻殻機動隊 Stand alone complex」第11話「亜成虫の森で PORTRAITZ」に登場するものです。
この一文の訳としては作中の通り「僕は耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた。が、ならざるべきか?」となるわけですが、そもそもこれ、J・D・サリンジャー著「ライ麦畑で捕まえて(原題"Catcher in the Rye")」の一節を引用したものなんです。
ライ麦畑でつかまえて―The catcher in the rye (講談社英語文庫) (Kodansha English library)
- 作者:J.D.サリンジャー,J.D. Salinger
- 出版社/メーカー: 講談社インターナショナル
- 発売日: 1997/04/01
- メディア: 文庫
(私が初めて「ライ麦」を読んだときは確か村上春樹訳のものだったので、このフレーズはこの訳そのままではなかったような気がします。当たり前だけれど)
しかしながら"or should I?"つまり「が、ならざるべきか?」という部分は、原文には登場しません。つまり作中に登場するキャラクターが「ライ麦」の一文に書き加えたものなんですね。
「僕は耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた」という一節。「ライ麦」からの引用。「が、ならざるべきか?」という加筆。そして「加筆した」ということ。
これら全てが、作中におけるテーマに大きく関わってくるのですが、そちらの話をし始めるととんでもねえ文字数になってしまうので、今は避けておきます。
「が、ならざるべきか?」。
人なら誰でも、常にこの言葉と無意識的に付き合いながら生きていると思います。
みんな常に、何か――今の自分とは違う何かしら――になろうとしているものです。意中のあの人と話したいなあとボンヤリ考えているときも、何か事業を興そう!と奮起しているときも、多分頭のどこかしらに「が、ならざるべきか?」がいるわけです。
人、特に大人って慎重で保守的なんですよね。20年以上も生きてますから、それまでに経験した数多の失敗から自ずと慎重にならざるを得ないんだと思います。だから「現状を脱したい」という思いが大小問わずみんな頭のどこかしらにあって、それでいて現状を脱することに対する抵抗感――例えば不安とか恐怖心とか――が首をもたげている。
失敗することというのは本当に怖い。「子供のうちに沢山の失敗を経験しておいたほうがいいよ」というのは、本当によいアドバイスだと思います。それは別に年齢と失敗に対する恐怖心が比例してるって話じゃなくて、子供には失敗を咎めてくれる人も、許してくれる人も、慰めてくれる人もいるわけですからね。
ここ数年、更に「が、ならざるべきか?」と格闘しながら毎日を過ごしてきたので、ついにはこんな記事を書いてしまいました。
思い返してみれば、これって往々にして杞憂なんですよね。考えすぎて停滞してしまうくらいならいっそ振り切って行動したほうがいいんだと思います(私の浅い浅い人生観からそう思ってるだけですよ!)。「しない後悔よりする後悔」って言うくらいですから。
…当たり前ですね。そんなこと。上手くやってる人って、きっとみんな分かってるんだと思います。
どうでしょう、外面(=表題)と内面(=記事)、釣り合ってました?
そのうち「攻殻機動隊」の考察でも書こうかな。
……が、書かざるべきか?なんてね。
では次の記事でお会いしましょう。じゃあね。
私は”140文字の制約”から逃げた
(こんなタイトルですが、内容としてはブログを始めるに至った経緯の話です)
文字をつらつらつらと綴るとき、常に脳裏を過り続けるのは「果たしてコレが誰かの目につくのだろうか」ということばかりです。それはかつて私が小学校を卒業する際に教室の端に残した些細なラクガキであっても、私が気まぐれで綴った小説や詩、短歌であっても、不定期なツイートの一つ一つであっても、このブログのこの記事であっても同じであります。何が言いたいのかと言われれば、私は文章の長短に関わらず常に誰かが読んでくれているだろうか?ということを意識しているということであります――
記念すべき一発目の記事の掴みがこんなものでよいのでしょうか(恐らくよくないですね)
皆さんはTwitterをやっていますでしょうか?正確には、”ツイート”なる行為をしてらっしゃいますでしょうか?私は細々とやっております。
熟考するたびにTwitterとは大変面白いものであるな、と思います。使い方次第で「コミュニケーション・ツール」にも、「情報を発信する場所」にも、「受信する場所」にもなりうるわけですから。(ところで、カタカナを中点で区切ると”ソレ”っぽく見えませんか)
私みたいな一介の俗人は友人の近況報告を見たり、TLに流れてくる漫画だの写真だの絵だのに目をしばたたかせながら毎日を過ごしています。
Twitterのウリはなんといってもその手軽さにあると思います(正確に言うならば、Twitterという空間が思ったことを形そのまま手軽に呟いてもよい場なんだと思います)。それ故に一切合切洗練されていない言葉の並びが毎日毎日私の元へぞろぞろ届きます。(別に馬鹿にしてるわけじゃないですよ)
例えば「○○が美味い」とか、「□□、すげえ面白い」とか。実に平和でよいですね。和みます。
一方で、これでもかというくらいに洗練して、言葉を選んで、ツイートしている人もちらほら見かけます。数にして140文字という制約の中で可能な限り己の伝えたいことを、主張のエッジを損なうことなく文字に起こして広大なネットの海へぶん投げているわけですね。こういった類のツイートを見ると、その人の熱意と語彙力に関心することがしばしばあります。
私はこの二者の温度差を何より楽しんでいます。決してどちらが劣っている…という話ではなく、こういった対極にあって然るべき文章が一つの空間に共存しているということが面白いんですね。
さて、この記事の本題は別にTwitterのどこそこが面白いナアという話ではないのです。
140文字。私はこの制約に背を向けて、尻尾を巻いて逃げたという話なのです。
(本題に入るのが遅いと仰いますか?私もそう思います)
どうも私というものは数字に弱いので、上の画像の文章(『マルドロールの歌』の書き出しですね)の文字数が140文字から更に87文字もオーバーしているとは思っておらず、この画像をスクリーンショットする際に驚きました。140と聞くとかなり多いように聞こえませんか。なんたって三ケタもありますから。しかし実際、この数字は”文章”という単位で考えるととても短いのですね。粋な文章の書き出しのその総てを納められないくらいのサイズなのです。
では視点を変えて、”呟き”という単位から140文字という数字を見つめると、これは大変大きい数字になります。前述の「○○が美味い」という呟き。例えば○○に実在のお店の名前と飲み物を当てはめて「スターバックスのダークモカチップクリームフラペチーノが美味い」としてみても、たったの30文字です。(因みに私はスターバックスのダークモカチップクリームフラペチーノを飲んだことがありません。美味しいの?)
つまり、日常の些細な出来事を呟くのに、140という数字は余裕も余裕というわけです。日本語のフレキシブルさがこれでもかというくらいに現れていますね。
文章という観点から見る140文字という制約。
呟きという観点から見る140文字という制約。
私が書きたいのは文章であります。即ち、140文字という制約は私にとってあまりにも窮屈でありました。余りにも足りません。そうか、私は140文字に納まる器ではないということか…!とまで思いました。
ですが、文壇の面々の呟きなんかを見ると、見事に140文字の制約の中で巧みに言葉を紡いでいるんですね。読んでみると文章でありながら呟きの側面を失ってないんです。
そういえば、少し前(一年ほど前だったかな)に、『54文字の文学賞』というのが流行っていた記憶があります。
(調べたら2018年初めの企画でした。時間が進むのは早いですね)
当賞の入賞作品を見てみると、作者の発想力や世界観、着眼点に関心するばかりですが、なんといっても日本語の持つ”圧縮力”に驚きます。
たった54文字でも、まるっと一つの世界を形成できるんです。
読ませる文章というものは140字では構築し切れぬという私の主張には、悲しきかな大量の反証が存在します。
――
「このブログを作ろう」と思ったのは、私が言いたいことを140文字以上で書きたいと思ったことに端を発します。最初は思ったことなんかのあれこれもTwitter上で書こうと思っていましたが、駄文・長文・散文の三重苦文をタイムラインに流してしまうと、多分ジャマだろうな、と思ったからというのも理由にあります。
と、こう書くと至極真っ当な使い分けでブログを始めたように見えますが、実際は140文字という制約の中で己の書きたいことを”読ませる文章”に仕上げて呟くことができないなと思ったからというところが大きいです。
冒頭にも書いた通り、私は常に発信力――即ち文章を読んでもらえているかなと考えること――ばかり気にかけて文章を書いています(この場合は”打ち込んでいる”ですね)
折角書くのなら、読んでほしい…というエゴを抱いてこの文章を書いています。
書きたいという純然な気持ち。読んでほしいという邪な思い。そういう二者のハザマで”自己存在の意義”という永遠のテーマに足掻きつつあれこれと書くことになるだろうな、と思ったので、ブログタイトルを『ハザマ雑記』としました。どうか読んでください。さすれば私は幸せです。
どんなブログなの?という話をしようと思ったのに、随分長い文章になってしまいました。多分数時間して読み返してみたなら、あちらこちらの粗に気付いて、悶々とするでしょう。初めての記事ですから、どうか温かい目で看過してください。
それでは別の記事でお会いできれば光栄です。さらば。