不要と認識、死――コロナ下における自死者増加について考える
インターネットの裏路地からこんにちは。Rの男です。お元気ですか?私はここ数日あまり元気がありません。
いよいよ12月も見えてきて、改めて冬の入り口に立たされているのだということを実感しますね。実はコレっていう冬服がなくて、買いに行こうと思っていたのですが、それもやるせない気持ちに呑まれてしまって、未だに行けていません。
今日はここ数日の間ずっと考えていたことについて話したいと思います。
表題を付けるにあたって、いつもみたいなはぐらかしたものを付けたかったのですが、それをすると自分の真意まで誤魔化してしまうような気がして止めました。
さて、数日前にちらっと目にしたニュースーー「コロナ下での自死者増加」が、今回のお話の出発点になりますから、まず此れに触れておきます。
ニュースソースは三つくらいで十分でしょう。
もしかしたら読んでくださっている貴方もこれに類するニュースを目にしたかもしれません。
コロナ下での自死者増加という問題は、それまで議論されてきた自死者問題の延長線上に置かれ、専門家たちがあっちのメディアに出てはそれらしい原因を並び立てています。上記ソースから引用させてもらうと、どうやら専門家は「雇用形態の変質」「家庭内暴力」「生活様式の変化」が主因と考えているようです。
「家庭内暴力」の項目に関しては、確かに家にいる時間が増えたことで増加し、それが自死要因になっている可能性は大いにあります。
しかし自死の主因の本懐とも言える「先行き不安」という点では、これがコロナ下で増加する自死要因に直結しているとは、どうも思えません。
(別に私は専門家でもありませんし、心理学をやっているわけでもありませんが)私から言わせてもらえば、コロナ下における自死の最大要因は「横の繋がりが希薄になりつつある」ことでしょう。
突然ですが、皆さんは"自分という存在がどうやって成り立っているのか"について考えたことはありますか?
別に哲学的な解答を求めている訳ではありません。
誰しも一度は「どうして自分が生まれてきたのか」とか「自分は何を目指せばよいのだろうか」などと考えたことがあると思います。
私は"元来自分などというものは存在していない"のだと考えています。
私という存在自体は、私に関わる他者(=第二者)の認識によって形成されています。
第二者がいなければ、自分の得手不得手を知ることもできません。比較する存在がいないわけですから。
人が構築する社会構造も根本的には相互に役割を求めあうことで成立しています。
仕事は募集があるから成立するのですし、家庭も父親が父親を、母親が母親の役割を負担するから成立するのです。
(本題に戻りまして)しかるにコロナ下での社会構造は、それぞれが集団から切り離されて、「横の繋がり」が希薄になってしまった個の集まりになっています。
自分を認識する第二者が希薄になるということは、自分が希薄になることと同義でしょう。
自分そのものが希薄になってしまったら、その先に待っているのは死です。
"誰からも認識されていない"という状況は"自分が死んでしまってもういない"という状況と何も変わりません。
コロナ下で自死者が増えていることの背景には、こういった心の揺らぎがあるのだと思います。
実際は、"誰もその人を認識しなくなっている"という状況はありませんでしょう。冷静に考えてみれば、きっと一人くらいは貴方のことを気にかけてくれる人はいます。親なり、知人、友人なり。
しかし、突然それを失ってしまうことのショックは、そういう事実を覆い隠してしまいます。
自殺する人がその死に方をあえて人に見える形で選びがちなのは、自分の最期くらい誰かに認識してほしいという強い思いから来ているのだと思います。
ホームから電車に向かって飛び降りたり、ネットで死にたいと言ってみたりするのは、誰かに見て欲しいという精一杯のシャウトなのでしょう。
かく言う私も他者からの認識に飢える人間の一人です。別にコロナの所為でそうなったわけではありませんが。
こうやってブログに記事を書くのも、意味の捉えづらいツイートをするのも、それを読んでくれた人によって私の自己認識が成り立つからなのだと思います。
このエゴイズムだけは、誰でもない自分から生まれ出でたものかもしれませんね。
私は貴方方のお陰で生きています。最大限の感謝の意を書き示すと共に、どうかこの記事が読まれて、私の寂々たる思いが癒えますように。
ここまで読んでくださってありがとうございました。次の記事でお会いできたら光栄です。
それでは。