ハザマ雑記

二極の狭間に漂う者の哲学

私は”140文字の制約”から逃げた

(こんなタイトルですが、内容としてはブログを始めるに至った経緯の話です)

 

 文字をつらつらつらと綴るとき、常に脳裏を過り続けるのは「果たしてコレが誰かの目につくのだろうか」ということばかりです。それはかつて私が小学校を卒業する際に教室の端に残した些細なラクガキであっても、私が気まぐれで綴った小説や詩、短歌であっても、不定期なツイートの一つ一つであっても、このブログのこの記事であっても同じであります。何が言いたいのかと言われれば、私は文章の長短に関わらず常に誰かが読んでくれているだろうか?ということを意識しているということであります――

 

記念すべき一発目の記事の掴みがこんなものでよいのでしょうか(恐らくよくないですね)

皆さんはTwitterをやっていますでしょうか?正確には、”ツイート”なる行為をしてらっしゃいますでしょうか?私は細々とやっております。

熟考するたびにTwitterとは大変面白いものであるな、と思います。使い方次第で「コミュニケーション・ツール」にも、「情報を発信する場所」にも、「受信する場所」にもなりうるわけですから。(ところで、カタカナを中点で区切ると”ソレ”っぽく見えませんか)

f:id:R_MAN:20200130145808p:plain

どうでもいい話なんですが試験に使われる論説文ってやたらとカタカナを中点で区切りますよね。なんで…?

私みたいな一介の俗人は友人の近況報告を見たり、TLに流れてくる漫画だの写真だの絵だのに目をしばたたかせながら毎日を過ごしています。

Twitterのウリはなんといってもその手軽さにあると思います(正確に言うならば、Twitterという空間が思ったことを形そのまま手軽に呟いてもよい場なんだと思います)。それ故に一切合切洗練されていない言葉の並びが毎日毎日私の元へぞろぞろ届きます。(別に馬鹿にしてるわけじゃないですよ)

例えば「○○が美味い」とか、「□□、すげえ面白い」とか。実に平和でよいですね。和みます。

一方で、これでもかというくらいに洗練して、言葉を選んで、ツイートしている人もちらほら見かけます。数にして140文字という制約の中で可能な限り己の伝えたいことを、主張のエッジを損なうことなく文字に起こして広大なネットの海へぶん投げているわけですね。こういった類のツイートを見ると、その人の熱意と語彙力に関心することがしばしばあります。

私はこの二者の温度差を何より楽しんでいます。決してどちらが劣っている…という話ではなく、こういった対極にあって然るべき文章が一つの空間に共存しているということが面白いんですね。

 

さて、この記事の本題は別にTwitterのどこそこが面白いナアという話ではないのです。

140文字。私はこの制約に背を向けて、尻尾を巻いて逃げたという話なのです。

(本題に入るのが遅いと仰いますか?私もそう思います)

 

f:id:R_MAN:20200130134535p:plain

ロートレアモン全集(栗田勇 訳)』マルドロールの歌 第一の歌 より

 

 どうも私というものは数字に弱いので、上の画像の文章(『マルドロールの歌』の書き出しですね)の文字数が140文字から更に87文字もオーバーしているとは思っておらず、この画像をスクリーンショットする際に驚きました。140と聞くとかなり多いように聞こえませんか。なんたって三ケタもありますから。しかし実際、この数字は”文章”という単位で考えるととても短いのですね。粋な文章の書き出しのその総てを納められないくらいのサイズなのです。

では視点を変えて、”呟き”という単位から140文字という数字を見つめると、これは大変大きい数字になります。前述の「○○が美味い」という呟き。例えば○○に実在のお店の名前と飲み物を当てはめて「スターバックスダークモカチップクリームフラペチーノが美味い」としてみても、たったの30文字です。(因みに私はスターバックスダークモカチップクリームフラペチーノを飲んだことがありません。美味しいの?)

f:id:R_MAN:20200130145010p:plain

https://www.starbucks.co.jp/customize/menu.html より)

つまり、日常の些細な出来事を呟くのに、140という数字は余裕も余裕というわけです。日本語のフレキシブルさがこれでもかというくらいに現れていますね。

 

文章という観点から見る140文字という制約。

呟きという観点から見る140文字という制約。

 

私が書きたいのは文章であります。即ち、140文字という制約は私にとってあまりにも窮屈でありました。余りにも足りません。そうか、私は140文字に納まる器ではないということか…!とまで思いました。

ですが、文壇の面々の呟きなんかを見ると、見事に140文字の制約の中で巧みに言葉を紡いでいるんですね。読んでみると文章でありながら呟きの側面を失ってないんです。

 

そういえば、少し前(一年ほど前だったかな)に、『54文字の文学賞』というのが流行っていた記憶があります。

www.php.co.jp

(調べたら2018年初めの企画でした。時間が進むのは早いですね)

当賞の入賞作品を見てみると、作者の発想力や世界観、着眼点に関心するばかりですが、なんといっても日本語の持つ”圧縮力”に驚きます。

たった54文字でも、まるっと一つの世界を形成できるんです。

 

読ませる文章というものは140字では構築し切れぬという私の主張には、悲しきかな大量の反証が存在します。

――

「このブログを作ろう」と思ったのは、私が言いたいことを140文字以上で書きたいと思ったことに端を発します。最初は思ったことなんかのあれこれもTwitter上で書こうと思っていましたが、駄文・長文・散文の三重苦文をタイムラインに流してしまうと、多分ジャマだろうな、と思ったからというのも理由にあります。

と、こう書くと至極真っ当な使い分けでブログを始めたように見えますが、実際は140文字という制約の中で己の書きたいことを”読ませる文章”に仕上げて呟くことができないなと思ったからというところが大きいです。

 冒頭にも書いた通り、私は常に発信力――即ち文章を読んでもらえているかなと考えること――ばかり気にかけて文章を書いています(この場合は”打ち込んでいる”ですね)

折角書くのなら、読んでほしい…というエゴを抱いてこの文章を書いています。

 

書きたいという純然な気持ち。読んでほしいという邪な思い。そういう二者のハザマで”自己存在の意義”という永遠のテーマに足掻きつつあれこれと書くことになるだろうな、と思ったので、ブログタイトルを『ハザマ雑記』としました。どうか読んでください。さすれば私は幸せです。

 

どんなブログなの?という話をしようと思ったのに、随分長い文章になってしまいました。多分数時間して読み返してみたなら、あちらこちらの粗に気付いて、悶々とするでしょう。初めての記事ですから、どうか温かい目で看過してください。

 

それでは別の記事でお会いできれば光栄です。さらば。