桜と雪とロックダウン/(未達成の)目的は手段になって
皆さん息災でしたか?どうも、Rの男です。
お久しぶりです。更新が空いてしまいましたね、すいません(n回目)。
昨日の東京は雪が降っていて…と書こうと思ったんですが、前回の記事も降雪から書き出していたような気がします。
本当なら週末には桜を見に行って、それを交えて記事にするつもりだったんですけど、都知事に止められるわ雪は降るわで達成できませんでした。これが一週間更新を開けてしまったことへの罰なんでしょうか。
そうそう、小池都知事の会見以降、コンビニやスーパーが騒然としていましたね。「ロックダウンするかも」なんて言われたら仕方ないな、と思う反面、緊急時こそ理性を保てという気持ちも沸きました。あ、理性的に行動した結果が買い溜めなんでしょうか?どうなんでしょう…。
余談をもう一つ。会見を見てて思ったんですけど、注意喚起したいのでしたら「クラスター」とか「ロックダウン」とか言わないで、老若男女を問わず理解できる言葉を使ったらどうなんでしょう。日本語の器の広さに甘えすぎだと思います。
「桜と雪とロックダウン」…こう書くと小説の表題みたいじゃないですか?もっともこの中で嬉しいのは桜だけなんですが。
本当に桜のことを書こうと思っていたので、全く書くことがありません。困りました。なので(残念ながら)今回も吐露のお話をしようと思います。毎回自分語りですいません。お時間がございましたらどうかお付き合いください。
今日のお話は「目的が手段になっている」というお話です。
読者の皆々様は「手段の目的化」を経験したことはございますでしょうか。
思い返してもパッと出てこないかもしれませんが、これは割とよく起こる――それも無意識下で――ことです。受験が例に挙げやすいでしょう。"受験戦争を勝ち抜く"というのはあくまで「(その後の道筋を補強するための)手段」に過ぎません。ですが臨んでいる時には、それに気付かないものです。学校に受かるということが目的になってしまって、他の道筋を見出せなくなる。小説家になる為に必要な事柄は「小説を書く」ことですし、プログラマーになる為に必要な事柄はプログラミング言語を習得することです。
受験戦争に勝ち抜いたことで、小説家になれること、プログラマーになれることが確約されるわけではありません。"受験戦争に勝ち抜く"ということは短期的な目標であっても、真の目標ではないのです(きっとここを履き違えた人が、変則的な学歴コンプレックスに陥るんでしょうね。よい年になっても学歴ばかりを振り回している人は、未だに手段と目的を間違えているのだと思います)
だからと言って、よい学校に行く(≒短期的な目標を高く据え、達成する)ということを軽視しているわけではありませんよ。ゲームで一つのクエストを終えると、また新たにクエストが現れるのと同じように、現実で目標を達成したとき、その先には「今まで目的だったもの」を足掛かりに進まなければならない事象が現れるものです。その時我々は、「いままで目的だったもの」を手段に変えて、先に進まなければならなくなるのです。
私の(駄文調の)力説を読んでくださった方ならもう既に分かっていると思いますが、私の身に起こっていること――「目的が手段に変わる」というのは、至極当たり前のことです。問題はその目的が手段に変えられるほどにまで至っていないということ。
「捕らぬ狸の皮算用」とでも言いましょうか。もっと俗っぽく例えるなら「宝くじを買って、6億当たったらどうしようか考えている」みたいな感じです。
「たられば」でものを考えるというのは誰にでもあることだと思います、浮足立っている時や、逆に酷く落ち込んでいる時なんかは「ああなったらどうしようか」と考えてしまうものだと思います。
でも――さっきの例になぞらえるならば――外れたことが分かった瞬間「宝くじ」の夢は霧散してしまうように、"たられば"には必ず終わりがあって、現実を見なければいけない時が来ます。
翻って、私の現状は「〇〇の獲得が為されたら□□をしよう」という段階から更に「□□を手にしたなら次は◇◇に臨もう」といった状態まで進行してしまっているのです。「6億円当たったなら車を買おう」「車を買ったら友人とどこそこへ行こう」…という具合に(免許だって取っていないのにですよ)。
愚かしくも、私は理想ばかりが先行してるんですね。
どうしてこんなことを記事にしようかと思ったかというと――(書くことにほとほと困ったという一点を除けば)似た現象を(大小は問いませんが)目下体験している人がいるんじゃないかと思ったからなんです。
理想的なヴィジョンばっかり描いてああしたいこうしたいと考えていると、いつの間にかありもしない万能感を獲得して、達成の可能性に触れなくなるんですよね。自分で自分に言い聞かせるうちに、一種の暗示に掛かるのでしょう。
こういう現象が集団単位で発生してしまうことをエコーチェンバー現象って言うんですが、
私の場合はたった一人でこの現象に掛かっているんですよね(セルフエコーチェンバーとでも言いましょうか)。
これを断つ方法って、こうやって積極的に他人の眼下に己が欠点を晒して、恥じ入ることで(結果的には自己暗示的に)改善していくしかないと思うのです。
自己暗示から生じた問題は、プロセスをひっくり返して改善していくしかありませんでしょう。
他人に「あなたのここがおかしい」と言われる機会はあっても、それを変えようと動くのは大変に難しいことだと思います。自分の問題点と向き合う、原因の根幹を探る、改善策を探す、改善しようと己へ働きかける。時間だって体力だって必要です。それに、人に言われずとも気付けたことを、人に言われるまで直そうとしないというのも(冷静に考えてみれば)おかしい話です。
見ての通り、私は決まった日にブログを更新することもできない人間です。万能とは程遠い。(こうやって書き連ねるとより自覚できますね)
でも、だからと言って、己が欠点に背を向け続けるわけにはいきません。
いきませんから、上記のとおり己の狂った現状を皆々様に投げつけました。お目汚し大変失礼しました。
…桜のように華やかな事ばかり書いて、永遠に優雅な気持ちでいたいのに、いざ書こうと思うと冬のまっ裸な木みたいなことしか書けません。嗚呼どうしたものでしょう。
(こんな文章ばかり書いていますけれど)次回の記事でお会いできたなら光栄です。草々不一。