ハザマ雑記

二極の狭間に漂う者の哲学

「それはやってみてから言うもんだ」というお話

皆さん最近の寒暖差に翻弄されていますか?どうも、Rの男です。因みに私は目下翻弄されてます。
ホワイトデーの東京は雪が降ってました。バレンタインのお返しを買いに雪中行軍したんですが、傘がみるみる重くなって大変でした。子供の時って雪が降るとただただ楽しい気持ちになれたのに、年を食ってから降雪に出くわすと全然楽しい気持ちになれませんよね。寒いの嫌だし、外出も厳しくなるし、積もられたら…なんて、どうも嫌なことばかり考えてしまいます。降っているのを家から眺めるのは大好きなんですけどね。どうして楽しめなくなっちゃうかって、それはきっと白雪のような純粋な気持ちが、大人になるにつれて薄れていってしまうからなんでしょう。え、違いますか?
バレンタインデー、母君からしか貰ってませんでしたから、人よりお返しが楽でした(多分)。その分母君へのお返しにお金がかけられたので良かったです。白ワインとチーズを送りました。「ホワイトデーなので白ワイン、嗚呼なんて洒落た返礼だろう」と自惚れて決行したんですが、今改めて考えると当日は寒かったんですから赤ワインのほうがよかったかもしれません。普段女性に贈り物をしないので、こういう時にパッと良いものを選定できなくて恥じ入るばかりです。普段はできるできると思っていても、いざ挑んでみるとそう上手くいかないことって多々ありますよね。
 
あ、そういえば、当ブログの累計アクセス数が三ケタになってました。とても嬉しいです。ありがとうございます。

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うれしい
このブログを見てくださっている方は現状私のツイッターのフォロワーばかりだと思うんですが、私のフォロワーは100人もいないんですよね。之即ち記事を2つ以上閲覧してくださっている方がちらほらいらっしゃるということです。大変嬉しい限りです。人類に未曽有の危機が訪れても皆さんの命は私が守ります。
「千里の道も一歩より」と言いますからね。この調子でアクセス数を千、万、億と増やしていき、ゆくゆくはこのブログが国家・国際経済の明日を左右する存在になるまで頑張ろうと思います。
 
さて、冗句はこれくらいで切り上げて、今日のお話は「やってみてから言いなさい」という自戒のおはなしです。
 
話はおおよそ一年前くらいに遡ります。当時は何故かやたらと「異世界転生モノ」のラノベ(いわゆる「なろう系」ですね)がアニメ化していて、ネットのあちらこちらで「また似たようなのがアニメになってる」みたいな声ばっかり目にする…みたいな時期があったんです。「スマホ太郎」とか「デスマ次郎」とか……覚えてますか?(「知ってますか?」かもしれません)

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こういうやつです
ネットユーザー、ひいてはネットコミュニティって基本的に"面白いこと""おかしいこと"が大好きなので、これらの作品も「ここがおかしい」とか「ここが破綻してる」とか「ここが似通ってる」みたいな感じで批判的に取り上げられて盛り上がってたんですよね。私はそういうネット上の評論(というか共通の評価)を見て、そういう意見に乗っかって「メチャクチャなアニメ」と友人との話のタネにしたりしていたんですが、ある時なんとなく弟にその話をしたら、私より遥かに詳しかったんです。なんでこいつこんなに詳しいんだ…と思って聞いてみたら、彼、ちゃんとなろうに行って原文を読破してたんですよね。
弟は「批評をするならまずはしっかり見なければならない。俺は批判したいから全部読んだ」と言いました(それもどうなの)。
ハッとしたことをよく覚えています。私は上記の作品には一切目を通さず、インターネットの多数派意見に同調する形で批判していたんですよね。必ずしも大多数の意見と己の意見が合致するかどうかは分からないにも関わらず、決めつけと(ある種の)思い込みで作品を貶めていました。今考えると、真面目に見て楽しんでいた人たちや、なにより作者の方に対して非常に失礼ですね。
 
インターネットに身を浸していると、こういった事象は珍しくないと思います。「盲目的引用」とでも呼びましょうか。何かに対して批判的なコミュニティの中にいればそのものに対して批判的になりますし、何かを絶賛する至極真っ当な意見を見れば、同じ切り口でその物を絶賛するようになるでしょう。
コミュニティに参加しているうちに、主張の形状が"コミュニティ=自分"になってしまうんですね。(これに関してはギュスターヴ・ル・ボンの「群集心理」という本に詳しい分析が記されています)

 

群衆心理 (講談社学術文庫)

群衆心理 (講談社学術文庫)

 

 

結果的に見たこともない作品を評論するようになったり、やったこともないことをやったかのような口ぶりで語りだしたりします。
 
弟の「臨んだ上で物を言う」という姿勢は、コミュニティにありながら個を喪失しない方法論であり、同時に「物事に対する距離感の思い込み」を払拭する方法論でもあります。
 
「やったことのないこと」って、結構できると思いがちです。数か月前――「ポケットモンスター ソード/シールド」における既存ポケモンリストラ騒動の時に「ポケモン一匹のモデリングは5分くらいでできる」と言い切った方がいらっしゃって、
 

 

 これを受けてツイッター上で" #ポケモン五分モデリング "なるタグが誕生するくらいには話題になっていたんですが、彼は少しも疑うことはなく「ポケモンの3Dモデリングは五分もあればできる」と思っていたのだと思います(そういうネタとして発言した可能性もありますけれど)。どうしてそんな思い込みをしていたのか?答えは簡単です。それは彼が「やったことがないから」
臨んだことのない、知識もない事象に対する認識って、大方こんなものだと思います。やったことがないので、自分との距離感が分からない。分からないので、多分できるだろうと思い込んでしまう。
上の人のような極端な例じゃなくても、こういった距離感の誤認を起こしている人の書き込みは結構見受けられます。

私は幼い頃から文章に触れるのが大好きで、詩を書いたり本を読んだりしながら大きくなりましたが、「長い文章を書く」経験はしてこなかったんですよね。「いつでも書けるから」と楽観視していたというのもありますし、そもそも「自分は書ける人だから」と思い込んでいたというのが大きかったでしょう。
ある時、いよいよ小説でも書こうと思い立って、シャーペンと原稿用紙を用意して書き始めたら、自分でもビックリするくらい全く上手くいきませんでした。当然と言えば当然です。これまで一度もやったことのない挑戦がいきなり上手くいくはずがありません。筆を置いて、その時の挑戦は断念しました。これ以上上手くいかないのを自覚したら、自分の自尊心が著しく傷つけられると危惧したからです。
それからは「やってないしやらないけど今ならできる(と思う)」という可能性という名の甘言に寄りかかって挑戦に背を向けてきました。負けず嫌いが高じて勝負をしなくなるというアレに似ていますね。
弟に(彼はそのつもりなど毛頭なかったと思いますが)一喝されて、己の姿勢の愚かさに気付きました。
あの時弟に「やってから言え」と言われなければ、このブログもなかったかもしれません(当ブログは筋道を立てて文章を書く練習を兼ねていますから)。事実、ブログも始めるまでは「そんなに難しくないだろう」と思っていましたし。実際やってみると、(やっぱり)自分の言いたいことをちゃんと順序だてて書くということに難儀します。私、多分纏めるのがヘタなんですね。思い返してみると幼い頃からそうでした。
 
「やってみてから言う」。私の、よく集団意見に甘んじてしまう私に対する最大の自戒です。こんな長文かつ駄文をここまで読んでくださってどうもありがとうございます。皆様もコミュニティの中で個を喪失せぬようお気をつけくださいね。
 
それでは次の記事でお会いできたら光栄です。ばいなら。