ハザマ雑記

二極の狭間に漂う者の哲学

逆算と死――「100日後に死ぬワニ」を見ながら

皆さん、トイレットペーパー、買えてますか?どうも、Rの男です。
また更新空いちゃいました。これ毎回言ってる気がしますね。
 
――平成も終わってめでたく令和になり、2回目となる東京オリンピックの影もちらちらと見えてきたこの現代で、まさか1970年~1980年代に起きたオイルショックのようなものを目の当たりにするとは思いませんでした。
駅前なんかに行くと一様にマスクをつけた人々が目下購入制限の掛かっている紙製品を一つ片手にレジに並んでいるのを毎日のように見かけます。
私がこういう人たちの集団を見て思うのは「ああ、意外に自ずから調べる人って少ないんだな」ということです。ネットでちょちょっと調べたなら、紙製品が国内生産で、買い占めなんか起こらなければ問題なく全家庭に行き渡るものだということがすぐに分かるのに、それを調べず薬局やスーパーなんかに走る人がこんなにも沢山いるんですね。皆さんの手元にあるスマートフォンは一体全体何のためにあるのでしょう。電話やメール?それなら仕方ないのかもしれません。
実際並んでいる人のうち何割かはデマに踊らされている人ではなく、普通に手元に無くなって慌てて買いに来ている人かもしれませんから、行列だけを見て極端な結論を出すものではないのかもしれませんね。
 
騒動って、急に始まって、いつの間にか終わりますよね。みんないつ終わるかなんて分からないまま、とりあえず明日のために生きてるんです。
 
 
さて、本題に入って、今日の議題は「100日後に死ぬワニ」にまつわるお話です。知ってますか?この漫画。

 

多分このブログを読んでいる先見性抜群の聡い読者の皆々様なら、毎日追っているってことはなくても、存在は知っているんじゃないかと思います。
知らない人のために、wikipediaのリンクも貼っておきますね。
(こんな記事を書いているのに、誠に失礼ながら)私は毎日熱心に追っているわけではありません。時々友人のリツイートで流れてくるのを目にして「ああ、彼もあと○○日で死んでしまうのか」とぼんやり考える程度の認識でした。
彼の死期が残り50日くらいまで来たとき、ふと、この作品に”ある不思議”を見出したので「そうだ、記事にしよう」と思いました。私がこれから話すのは「ワニくんがどう死んでしまうのか」という考察であったり、「この作品の魅力はココだ」みたいな話ではありません。なんたって私はにわか読者ですからね。内容に深く触れて語ろうなんてとてもおこがましいです。
私が今から話す話。それは「逆算と死」です。タイトル通りですね。ちょっと勿体ぶってすいません。
 
 映画、小説、漫画とあらゆる創作物で「死」は起承転結の「転」の定番でした。真相を掴んだ相棒が消されたり、突然主人公サイドの人物が急死することで事件が急速に展開したり、時には主人公が死んでしまったり……と、例を挙げれば枚挙に暇がないですが、ともかく、これらの「死」には共通して「視覚外からの来訪」という特性があります。急に「死」が目の前に現れるからこそ、鮮烈で強烈なのです。
ですが、「100日後に死ぬワニ」に見られる「死」はそういったものとは少し違います。(いきなり死が提示されるという意味では「視覚外からの来訪」なのですが……)
 
「100日後に死ぬワニ」の持つ「死」の特性は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」に似たものがあります。

 

 「そして誰もいなくなった」は、初めに「登場人物が全員退場する」ということが(表題で)明かされた上で始まります。読み手は「いなくなる」ということを知ったうえで、「どう全員がいなくなるのか」というところに注目して読み進めることになります。

「100日後に死ぬワニ」は、100日後に死ぬということを踏まえた上で、彼の日常的行動――それも、例えば友達と遊んだり、働いたり、好きな人にやきもきしたり――を100日間追っていくことになります。読み手は彼が「この日常的風景の中でどう死んでしまうのか」というところに注目しながら読み進めることになるでしょう。

 「主人公が死ぬ(であろう)」ということを分かった上で作品を楽しむというコンセプトがこの二者の共通点ですが、ミステリー小説である「そして誰もいなくなった」とは違い、「100日後に死ぬワニ」は変哲もない日常を描いている作品です。ミステリーに付随する「死」と日常系に付随する「死」ではその緊張感が違います。

 ミステリーはストーリー展開のために死も厭わないですが、日常系で死が起きたらそれは「非日常」の要素を得てしまいますからね。
 
 終わり、それも「死」という物質的な終わりを提示しながら始まる作品。即ち話そのものが逆算的な構造になっているんですね。"ある不思議"とは、まさにこのことです。
「死の逆算」。意外と類を見ない作品形態だと思います。
 
人間なら誰でも、自分はあと何日で死んでしまうんだろうと考えたことがあるでしょう。死はどんな人にも平等に訪れますからね。(これ、ロレンハーゲンでしたっけ?)絶対に訪れるのは分かっているのに、いつ訪れるのかは分からない。ですからみんな「そういうものだ」という認識に留めておいて、考えるのはやめて、毎日を過ごしているんだと思います。どうでしょう。例えばいきなり宣告者――死神でも、悪魔でも、超能力者でもいいですが――が現れて、「お前の寿命は残り100日だ」と突き付けてきたなら、きっと貴方は勿体ない生き方なんて一切やめてしまうでしょう。例えば貴方に突如"通り行く人々の寿命が見えるようになる能力"が備わり、親友の寿命があと100日だと知ってしまったなら、きっと貴方は友人の素振りを見て「ああ、なんと勿体ない生き方だろう」と思うでしょう。
 
"死の可視化"には、強烈な力があります。不可避を、それも得体の知れない不可避をあえて見つめるなんてしたくもありません。
でも、一方で、私はエピクロスのように「死は我々とは無縁である」と割り切れるほどの度量もありません。
 
死は日常の中に、私のように住んでいて、ひょっこり――交差点でばったり出会うような感覚で、私を殺めるんだろうな、と「100日後に死ぬワニ」を見ながらぼんやりと考えました。
 
それでは次の記事で会えたら光栄です。まったね~☆
 
*おまけ*
(前回の記事より)

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