ハザマ雑記

二極の狭間に漂う者の哲学

攻殻機動隊SAC_2045 シーズン1 感想――思春期の激烈を忘れるな

【注意】
本日の記事はアニメ「攻殻機動隊SAC_2045」シーズン1の内容に踏み込んだ記事になります。当作品やSACシリーズに関するネタバレや個人的見解が多く含まれますので、独断的解釈が苦手な方や、SAC_2045を未視聴の方の閲覧は推奨しません。
 
 
 
皆さん、不要不急の外出を避けていますか?どうも、Rの男です。
何かと多忙になってしまい、更新が疎かになってしまいました。大変申し訳ございません。
己に課した約定に背くということに対する罪悪感が薄れないうちに自分の首を絞めないとどんどん「しない人」になってしまいますからね。
 
(本当は世間話でもしようと思ったのですが、外出もしていませんで語り草もありませんので省略いたします)
 
さて、本日の話題は4/23日からNETFLIXで配信が始まった「攻殻機動隊SAC_2045(以下『SAC_2045』と書きます)」です。

www.ghostintheshell-sac2045.jp

 

かれこれ一年前ほどでしょうか。攻殻機動隊SACシリーズの新作(実を言うと、タイトルにSACという文字が入っていただけで、明確にStand Alone Complexを意味するものであるのかはこの時点では不明だったんですけどね)が発表されたとき、(久方ぶりに)全身に鳥肌が立ったことをよく覚えています。それは「期待」の証左でもあり、「不安」の証左でもあったのだろうと思います(少佐だけに…)

自分にとって人生の一部とも言えるアニメシリーズの続編が来るというのは、言ってみれば「神の啓示」を再び受けることを許されたようなものです。

同時に、これから目の当たりにする作品が、自分の中で神格化されたものを酷く貶めてしまうのではないか…という気持ちもありました。

「SAC」の笑い男事件、「2ndGIG」の個別の11人、「SSS」の傀儡廻に続く(この場合は「匹敵する」ですね)作品を、再び生み出すことなんて可能なのだろうか…という不安は、「SAC_2045」が公開されるまで払拭されませんでした。

つい先日、時間ができましたので、SAC_2045を一気見して、甚く感銘(それと「郷愁」)を受けましたので、ここに過去のSACシリーズを踏まえたSAC_2045の感想を書こうと思います。どうかお付き合いください。

 

 イ-「SAC_2045の持つS.A.Cの遺伝子」

 

SAC_2045、ざっと見ただけでも、かなり過去シリーズを意識したシーンが含まれています。(続きものなのですから、当たり前と言われれば当たり前なのですが…)

1話にてSAC・2ndGIG・SSS時(2030~2034年)で総理大臣を務めていた茅葺よう子の肖像画(写真かもしれません)が飾ってあるのに続き、

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SAC_2045 1話「NO NOISE NO LIFE/接続可能戦争」16分12秒辺り より

1話ラストに登場する番犬ロボットはSAC14話にて横瀬邸を守っていた番犬ロボットを思わせるデザインになっている、

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同上22分43秒より

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SAC 14話「全自動資本主義 ¥€$」16分7秒辺り より

(二機の番犬ロボの開発元の会社は異なりますが、一つ目で歯がノコギリのように可動するという点が共通しています。「攻殻」世界の番犬ロボットはこれが標準武装なのかもしれませんね)

 

4話にて荒巻大輔を久利須・大友・帝都総理と引き合わせる場を作ったであろう男がSAC1話にて荒巻に「一ノ瀬レポート」の情報を提供した男と思われる

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SAC_2045 4話「SACRIFICIAL PAWN/分界からの使者」15分15秒辺り より

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SAC 1話「公安9課 SECTION-9」14分30秒辺り より

など、前半から過去シリーズを熱心に見ている人たちはニヤリとできるファンサービス・シーンが多く見受けられました。

他にもトグサとスミスの「君とはどこかで…」のやりとりが2ndGIGにおけるトグサと合田とのやりとりのオマージュである(ように思われる)、SAC_2045 1話における素子の「自分の役目を忘れていなかったな」というセリフがSAC14話の「服としての役目を忘れていない?」とタチコマを叱るシーンと対になっている(タチコマの成長をそれとなく示唆している)などもありました(が、これらはやりとりにおける過去作要素でしたので、キャプチャは止しました。各々ご自身の耳でご確認になってください)。

もう一つ、過去シリーズと重ねて重要になるのが「トグサの成長」です(でしょう)。

9課実動員(主要キャラクター)において唯一の非義体(SSSで若干の義体化を施しているようですが)、自身の直感を信じて行動し、大体危ない目に遭う…というのがシリーズにおける彼のお約束でしたが、SAC_2045では義体化した男性(しかも凶器を所持)と生身でやりあって取り押さえる、会社のPCからダークウェブへアクセスし、遠方で活動している元9課メンバーについての情報を収集する(SAC26話では消息不明になった9課メンバーの足取りを追えていなかった)、諜報員に対してハックを仕掛けるなど、彼の個人能力が行動力に追い付いているというところが印象的でした。「攻殻」の重要なファクターの一つに「トグサという存在」があると私は思っているので、彼の成長が作中において流れた年月(11年)を実感させるよい舞台装置になっているなと感じました。

後述しますが、結局危ない目に遭っているんですけどね…

 

ここで語りつくせないほどSAC_2045には細かい注目ポイントがありますし、私も感想文における主題に入りたいので、注目ポイントの羅列はこのくらいにしておきます。

 

ロ-「シマムラタカシ」という少年

 

SAC_2045において最重要になる(であろう)人物。それが「シマムラタカシ」という少年です。

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シマムラタカシ少年(公式サイトより)

彼はSAC_2045 8話「ASSEMBLE/トグサの死によってもたらされる事象」において、日本国内に存在するポスト・ヒューマンのリストに名前が見られますが、キャラクターの一員として姿を見せるのはSAC_2045 11話「EDGELOAD/14歳革命」からです。

SAC_2045 10話「NET PEOPLE/炎上に至る理由」から登場した殺人プログラム「シンクポル」を構築した張本人であり、同時に他のポスト・ヒューマンは違った動きを見せるキャラクターでもあります。

なぜ彼がSAC_2045における最重要キャラクターになると考えたか。それは、彼のキャラクター(パーソナリティ)が、SACにおいて9課が対峙してきた人物の総決算であると感じたからです。

これ以降の項目は、彼と過去シリーズを重ねながら(若干の補足を交えて)語っていこうと思います。

 

ハ-「ポスト・ヒューマン」という括り

 

――作中のセリフを借りるなら「人類共通の敵」である「ポスト・ヒューマン」は、レイディストたちに兵器を無償提供する(パトリック・ヒュージ)、軍基地に侵入しミサイル(核ミサイルでしたっけ?)を発射しようとする(ゲイリー・ハーツ)など、既存の社会構造を破壊するために行動しています(ただし、ポスト・ヒューマンの真意が何であるのかというポイントは、今のところ明らかになっていません)。しかし、日本国内にて確認されているポスト・ヒューマンは、上記した存在とは少し違った動きを見せます。

SAC_2045 9話「IDENTITY THEFT/一人きりの闘争」にて登場するポスト・ヒューマン、矢口サンジは元ボクサーの男であり、己の拳で人を殴り殺す(そういえば、こういった例も「撲殺」になるんですね)というキャラクターでした。しかし彼は全人類に牙を向いて…という訳ではなく、この国で不正を働いていた人物(国籍を不正に取得している偽装難民や、「東京復興計画」に、安価な労働力として偽装難民を集めていた企業関係者)を粛清(彼の方法的には「撲滅」ですかね)するために行動していたのだということが分かります。

また、シマムラタカシも、「シンクポル」というプログラム――集団に於いて何らかのヘイトを買っている人物を、ヘイトを抱いている人々のリソースを利用(具体的には個々の細い処理能力を集約して攻撃するといったもののようです。ネットにおける個人攻撃が物理世界に影響を与えるようなものだと捉えれば分かりやすいかと思います)し、殺害するというもの――を構築していますが、彼が個人としてそれを利用したのはたった一度で、それも国家の重役などにではなく、自身が通っていた学校の生活指導担当の数学教師に対して行使しています。

こう並べて書いてみると、どうも国内で発生したポスト・ヒューマンによる事件は、あまり大規模なものではないように思えますし、社会構造の破壊が目的ではなく、むしろ自身が所属する集団における悪性を除去するために活動しているようにも見受けられます。(武器提供やミサイル発射も、その社会構造における悪性を集団単位で捕捉したのだと考えれば、これも悪性除去と言えるのかもしれません)

「シンクポル」はのちにシマムラタカシと同じ学校に通う少年、ウオトリシンヤ(漢字は分かりませんでした)が表の世界に解放し、死亡者が出ることで公安9課の目に飛び込んでくるわけですが、これもウオトリ少年が使用していただけで、シマムラタカシは(表のネット社会での行使には)一切関わっていませんでした。

国内のポスト・ヒューマンには「喋る」というポイントも重要な相違点であると思われます。パトリック・ヒュージ、ゲイリー・ハーツの2名は、作中で一切口を利きません。喋ることができないのか、あえて喋らないのかは不明ですが、何か言葉を発するというシーンは一切ありませんでした。

それに対し矢口シンジは9話の最後で首相に対して「お前の目的は何だ」と話しかけるシーンがありますし、シマムラタカシも11話にて母親に対して「ありがとう」という旨の置き手紙を残す、12話「NOSTALGIA/すべてがNになる。」のラストシーンでトグサに「あなたも乗りますか」と語りかけるシーンがある(これはトグサのみが見えている「郷愁」の光景でありますから、実際に彼が話しかけていたのか、そもそも実体としての彼がその場にいたのかどうかという点は不明なんですが)というように、ポスト・ヒューマンになった後に人に対して話しかけるというシーンが用意されています。

これが何を意味するのか、現段階では分かりかねますが、ポスト・ヒューマン間の相違点を明確にするための演出なのではないかという風に捉えています。

 

ニ-シマムラタカシの持つ「SAC」の遺伝子

 

私が彼に着目した理由は、何も彼がポスト・ヒューマンで唯一、公式サイトのキャラクター紹介ページに載っていたからというわけではありません。

www.ghostintheshell-sac2045.jp

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公式サイトより

 彼は間違いなく、「SAC」の重要キャラクターが持つ特性を保有しています。

一つ目は"彼が少年である"ということ。これは「SAC」のキーパーソン、アオイ(笑い男)と共通しています。

笑い男がセラノ・ゲノミクス社のマイクロマシン療法にまつわる国の不正と村井ワクチンの不認可を看過できなかったのは、彼の若さに由来する正義感に他ありません。「SAC」は(作中にも出てきますが)J.D.サリンジャーに多大な影響を受けています。笑い男という名もJ.D.サリンジャー著「ナイン・ストーリーズ」の一篇に由来していますし、彼のキャラクター性は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公をなぞっています。若さ故に不正が許せない。若さゆえに人の本能に振り回される。己について考え続ける。自他に失望もするし、急に思い切ったことをしてみたりする。そういう思春期の不安定さが、アオイという少年をより魅力的なキャラクターにしています(実際に、作中でもそこを神格化されていましたね)。

シマムラタカシ。年は14。彼もまた、思春期真っ只中の悩める少年です。笑い男と同じ――「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公と同じ――ように、若き悩みを抱いていますし、自分の世界に生きている部分がありますし、目に映った悪を看過できない。でもここだけは違って、彼はアオイのように、何か行動を起こすことができる技能も、勇気もなかったんですね。

二つ目は"彼が法則性から逸脱していく"ということ。これは「2ndGIG」のキーパーソン、クゼヒデオとの共通点です。

クゼは合田の作成した「個別の11人」ウイルスにより、難民解放を謳いながら難民の精神的支柱を破壊する尖兵の1人になりましたが、計画していた首相の暗殺に失敗してしまったことを皮切りに「個別の11人」という存在そのものに懐疑的になっていき、最終的に彼は自身の生まれ持った特性によって、難民を導く存在になっていきました。

彼は突然変異的に、自身が感染した「個別の11人」ウイルスの筋書きから逸脱していきます(ラボの人間からは「突発性異変体」と呼ばれていましたね)。

ニシムラタカシも、明らかにポスト・ヒューマンの法則性から逸脱していきます。ある日突然高熱に倒れ、回復後、異常な食欲に見舞われ、超人的な能力を得る…というところまでは法則に漏れていませんでしたが、「シンクポル」で教師を殺害した後の彼の動きは、明らかにそれまでのポスト・ヒューマンとは異なります。

「シンクポル」作成後、トグサに「郷愁」を覚えさせた「何らかのプログラム」を組んでいること、あえて監視カメラに映ることで、自身が来たことを素子らにアピールしたこと、実家に戻り、母親に置き手紙をしたこと、自身の幼い頃の記憶をトグサに追体験させたことなど、明らかに「殺戮者」というポスト・ヒューマン共通の結果特性(最終的に行き着くポイントをそう言わせてください)から離れていきます。

彼もまた、クゼのようにある種の「突発的異変体」なのだと考えられます。

 

ホ-「思春期」は少年の運命を分かつか?

(このシーンは、現時点では複数の解釈があるかと思います。私はまだ他の方の解釈を読んだりしていないので、私と同じ解釈をなさる方がいらっしゃるかどうかは分かりませんが、ここでは自分が見て感じたことを素直に書こうと思います。)

 

彼が明確に「ポスト・ヒューマン」の法則から逸脱していく決定的な瞬間は、間違いなくSAC_2045 11話 16分30秒辺りから交わされるタカシとユズのやり取りでしょう。

「シンクポル」で諸生徒が抱くヘイトを統合し、教師を殺害したタカシは、ユズに「もっと懲らしめたほうがいいヤツをやっつけようよ」と言われ、無言でその場を去っていきます。

このシーンの少し前に、生徒が死んだ教師を見下ろしながら、「先にカナミを焼いていたかもしれない」という旨の発言があります。

表面的に捉えれば、"自身の正義に違わぬ方法で、自身が所属する集団に於ける悪を断罪したつもりでいたが、自分が密に思いを寄せていた少女も同じように皆から嫌悪の意を持たれており、彼女が自殺してしまったとき、誰も立ち上がらなかったのは、「皆が自分のように声を上げる勇気がなかった」のではなく、無言の肯定であったことにひどく失望した"という風に受け止められます。

確かに、そういう一面もあったでしょう。しかし、彼が無言でその場を去っていったのは、決してそれだけではないように思えるのです。

まず彼に要所要所で語りかける「ユズ」について語らねばなりません。

彼には幼い頃に死んだ「ユズ」が見えていますが、他の人には見えていない。これは「ユズ」が彼の心の一面を映したものであると、私には思えました。

「みんなお兄ちゃんと同じで、勇気がないから声が上げられないんだ」と語りかけたり、「お兄ちゃんが空挺部隊なんだよ」と彼を鼓舞するようなことを言ったり、「もっと懲らしめたほうがいいヤツをやっつけようよ」と誘惑するのは、私には他者との会話ではないように聞こえます。

このくらいの年頃って、往々にして自分の中に「統合しきれない自分」がいるものです。例えば――"やらなければならないことをしない自分を叱咤する自分"がいたり、同時に"心が低い方へ流れていくことを責めず、擁護してしまう自分"がいたり、"自分の不出来さに無性に腹を立てる自分"がいたり…という具合に、自分が纏まりきらないのです。こうした"纏まらない自分のもう一つの声"が、彼の世界の中では「ユズ」という存在で再生されている…という風に私には見えました。

彼女――いわばもう一人の自分が「もっと懲らしめたほうがいいヤツをやっつけようよ」と語りかけてくる。彼が声に背いて、その場を去ったのは、自分に対する強烈な虚無感を感じたからなのではないでしょうか。

自分の良く知る人に強い罵声を浴びせてしまった後の得も言われぬ虚しい感覚…と言えば、分かりやすいでしょうか。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう、と自分を責めるような、やるせない気持ちになるような…(感覚的な話で大変申し訳ありません。青い気持ちを言語化するって難しいですね)。

彼が初めて力を手にして、それを目の前の悪にぶつけた時、きっと彼は自分の思った感覚とは違う感覚に襲われたことでしょう。達成したはずなのに、達成感なんてありません。殺してしまったということへの罪悪ではなく、そういう感情に身を委ねた後に訪れる、寄りかかりどころのない脱力感。きっと酷く虚しくなったことでしょう。

心の中の自分が語りかけてくる。「もっと懲らしめたほうがいいヤツをやっつけようよ」。

断罪のために構築したプログラムを、断罪のために使う。目的は達成されたけれども、良しとする自分と、虚しい自分がぐちゃぐちゃになってしまって、終いには自分が酷く嫌なもののように思えて、その場から去った。去りたくなった。私にはそう映りました。

彼はその後、「郷愁」を与えるプログラムを組み上げて、またどこかへ行ってしまう。

郷愁の感覚って類のない感覚ですよね。私の語彙ではもの凄く独断的なワードチョイスになってしまって、その感覚の尊さのようなものを上手く読者の方々にお伝えできる自信がないのですが、随分昔に読んだ「少年の日の思い出」という小説に「むさぼるような感覚」と記してあって、これにとても合点がいったので、引用させていただきまして――

この「むさぼるような感覚」。思春期の、自分の着地点も分からぬ状態に晒されて、唯一自分を自覚できるのがこれだったのだと思います。自分の間違いのない記憶。自分が育った場所、その場所の空気や、環境音のその総てが、"不安定な自分の確かな実在性"みたいなものを自分に教えてくれるのだと思います。

タカシが9歳の時に起こった出来事――預け先の京都で、唯一自分に歩み寄ってくれた少女を失ったこと、「1984」に巡り合ったこと、「空挺さん」に会ったこと。

ふと昔を振り返る瞬間があったとき――それは「シンクポル」を行使し、あの場を離れたその時だったのでしょう――、自分の決定的な転換点が、あそこにあったのだと気付いた時、「郷愁」を覚える何らかのプログラムを書かねばならぬと思ったのでしょう。

これも、ものすごく思春期的で、サリンジャー的だと感じました。

とても青い突発さ、不安定さが彼を突き動かして、成熟したポスト・ヒューマンの至る道とは異なる方向へと向かっていくのでしょう。

 

こういった――サリンジャーが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に活き活きと記した少年のあり様を、私は勝手に「思春期の激烈」と呼んでいます。

私がSACシリーズを心の底から愛しているのは、こういった自分の身にも覚えのある「思春期の激烈」を、作品がどことなく肯定してくれるからなのだと思います。

 

トグサはそのプログラムに導かれ、タカシと共にバトーの目の前から消えてしまう…というところで、シーズン1は終わりました。

中々残酷なことをするものだと思います。ようやく話のラインが見えてきたところでお預けだなんて、なんと残酷。

ですが、そのお陰で、こうやって自分の書きたかったことをここに記すことができました。今の私は大変満足です。自己満足に付き合っていただきありがとうございました。

こうやって書きまとめていると、SAC_2045のプロットに「1984」やサリンジャー作品以外の血も感じられますね。

見ている時になんとなく、アーサー・C・クラーク著「幼年期の終わり」のエッセンスを感じました。人がある日、既存の人ではないもの(=ポスト・ヒューマン)になっていってしまうところなんかは、似たようなものを感じます。

 

タイトルにも入れたように「思春期の激烈」こそが、今回の記事で最も語りたかった部分です。どうしてそこにフォーカスを絞った〆にしたかというと、私が未だにその感覚から抜け出せていないからなんですね。

「大人になる」というのは「あるがままの自分(もしくは他人)を許容する」ということだと勝手に定義付けています。

そう考えると、私もまだ青いのだと思います(自称すると痛いことこの上ないですね)。

 

かなり長くなってしまいました。「1984」やサリンジャー作品を読み返しつつ、「SAC_2045」を含めた旧シリーズを見返したりしながら、シーズン2を待とうと思います。

 

それでは次の記事――或いは次のシーズンでお会いしましょう。アディオス。

 

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