ハザマ雑記

二極の狭間に漂う者の哲学

さて子は去って丑がゆっくりやってくる

無沙汰しております。皆さん、年越しそば、茹でてますか?どうも、Rの男です。

いよいよ2020年も終わろうとする中、こんなブログに訪れてくださってありがとうございます。恐悦至極、至福の至りです。

正直なことを言うと、2020年最後の日の23時になっても、未だ年が明けるという実感がありません。今年は頭から厄災に見舞われ、世界中がまるごと振り回される一年だったからなのだろうと思います。思い返しても上半期はステイホーム、下半期は社会的距離…みたいな記憶しかありません。

ただその一方で、自分の時間が多く取れたためか、何かと研究や考察が捗った年でもありました。去年の倍くらい本も読めましたし、文章を書く機会も3倍くらいに増えたような気がします。

来年の目標は今年の研究・考察・分析をフルに活かして、何か文学系の賞を取ることですかね。どうか生温かい目でお見守りください。

 

思えばブログを始めたの、今年の1月だったのですね。光陰矢の如しとはよく言ったもので、つい数か月前に始めたような感覚なのですが、アーカイブを見ると愕然とします。1年で16記事…うーむ、来年は倍くらい書きたいですね。

 

だらだら回想していると、ただでさえ行き当たりばったりで書いている駄文が延々と続いてしまうので、ここら辺で〆ようかと思います。

 

それでは皆さん――こんなインターネットの路地裏を覗きに来てくださる心温かな皆さん、2020年の残る1時間をごゆるりとお過ごしください。ばいばーい。

不要と認識、死――コロナ下における自死者増加について考える

インターネットの裏路地からこんにちは。Rの男です。お元気ですか?私はここ数日あまり元気がありません。

いよいよ12月も見えてきて、改めて冬の入り口に立たされているのだということを実感しますね。実はコレっていう冬服がなくて、買いに行こうと思っていたのですが、それもやるせない気持ちに呑まれてしまって、未だに行けていません。

 

今日はここ数日の間ずっと考えていたことについて話したいと思います。

表題を付けるにあたって、いつもみたいなはぐらかしたものを付けたかったのですが、それをすると自分の真意まで誤魔化してしまうような気がして止めました。

 

さて、数日前にちらっと目にしたニュースーー「コロナ下での自死者増加」が、今回のお話の出発点になりますから、まず此れに触れておきます。

www3.nhk.or.jp

www3.nhk.or.jp

news.yahoo.co.jp

ニュースソースは三つくらいで十分でしょう。

もしかしたら読んでくださっている貴方もこれに類するニュースを目にしたかもしれません。

 

コロナ下での自死者増加という問題は、それまで議論されてきた自死者問題の延長線上に置かれ、専門家たちがあっちのメディアに出てはそれらしい原因を並び立てています。上記ソースから引用させてもらうと、どうやら専門家は「雇用形態の変質」「家庭内暴力」「生活様式の変化」が主因と考えているようです。

家庭内暴力」の項目に関しては、確かに家にいる時間が増えたことで増加し、それが自死要因になっている可能性は大いにあります。

しかし自死の主因の本懐とも言える「先行き不安」という点では、これがコロナ下で増加する自死要因に直結しているとは、どうも思えません。

(別に私は専門家でもありませんし、心理学をやっているわけでもありませんが)私から言わせてもらえば、コロナ下における自死の最大要因は「横の繋がりが希薄になりつつある」ことでしょう。

 

突然ですが、皆さんは"自分という存在がどうやって成り立っているのか"について考えたことはありますか?

別に哲学的な解答を求めている訳ではありません。

誰しも一度は「どうして自分が生まれてきたのか」とか「自分は何を目指せばよいのだろうか」などと考えたことがあると思います。

私は"元来自分などというものは存在していない"のだと考えています。

 

私という存在自体は、私に関わる他者(=第二者)の認識によって形成されています。

第二者がいなければ、自分の得手不得手を知ることもできません。比較する存在がいないわけですから。

人が構築する社会構造も根本的には相互に役割を求めあうことで成立しています。

仕事は募集があるから成立するのですし、家庭も父親が父親を、母親が母親の役割を負担するから成立するのです。

 

(本題に戻りまして)しかるにコロナ下での社会構造は、それぞれが集団から切り離されて、「横の繋がり」が希薄になってしまった個の集まりになっています。

自分を認識する第二者が希薄になるということは、自分が希薄になることと同義でしょう。

自分そのものが希薄になってしまったら、その先に待っているのは死です。

"誰からも認識されていない"という状況は"自分が死んでしまってもういない"という状況と何も変わりません。

コロナ下で自死者が増えていることの背景には、こういった心の揺らぎがあるのだと思います。

実際は、"誰もその人を認識しなくなっている"という状況はありませんでしょう。冷静に考えてみれば、きっと一人くらいは貴方のことを気にかけてくれる人はいます。親なり、知人、友人なり。

しかし、突然それを失ってしまうことのショックは、そういう事実を覆い隠してしまいます。

自殺する人がその死に方をあえて人に見える形で選びがちなのは、自分の最期くらい誰かに認識してほしいという強い思いから来ているのだと思います。

ホームから電車に向かって飛び降りたり、ネットで死にたいと言ってみたりするのは、誰かに見て欲しいという精一杯のシャウトなのでしょう。

 

 

かく言う私も他者からの認識に飢える人間の一人です。別にコロナの所為でそうなったわけではありませんが。

こうやってブログに記事を書くのも、意味の捉えづらいツイートをするのも、それを読んでくれた人によって私の自己認識が成り立つからなのだと思います。

 

このエゴイズムだけは、誰でもない自分から生まれ出でたものかもしれませんね。

私は貴方方のお陰で生きています。最大限の感謝の意を書き示すと共に、どうかこの記事が読まれて、私の寂々たる思いが癒えますように。

 

ここまで読んでくださってありがとうございました。次の記事でお会いできたら光栄です。

それでは。

 

 

ハッピーバースデーワタクシ/こんな私にも役所は番号をくれる

に半袖の人々を外で見かけなくなり、同時に木々の葉が思い思いに地へと旅立ってく時期がやってきましたね。

皆さん、コートとかジャケットとかをクリーニングに出してきましたか?

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どうも、「己の命と引き換えに世界を救った世界線のRの男」です。モットーは『一か八か』座右の銘『我が身を盾に』です。少し私の話にお付き合いください。

あ、因みに私はまだクリーニングに行ってません。天日干しはしましたので、今週中に持っていきたいと思っている所存です。

 

遡ること先週の月曜日――即ち11月2日は私の生誕日でした。

酒を飲んだり、(自分で作った)ケーキを食べたりしている間にも、心優しい私の友人たちから誕生日のメッセージが続々と届き(2通)、今年も無事に誕生日を迎えられたことを幸せに思いました。

さて夜をぐるりと回って次の日の朝、ポストを覗いたらば、私宛に何か手紙が届いていましたので、珍しいこともあるものだと思い宛先を確認すると役所からでした。「まさか役所からもお祝いのメッセージが…!?」とウキウキで開封しましたら、マイナンバーの交付通知書だったんですね。

 

――遡ること一ヶ月前、私が新たに口座を開設しようと思った際、登録用書類の中にマイナンバーカードが含まれていたり、PS5の抽選にあたって運転免許証かマイナンバーカードかのどちらかを身分証明書として要求されたりと、今年の秋口からやたらとマイナンバーカードが必要になるシチュエーションがありまして、(私自身必要に駆られていなかったため作成していなかった)顔写真付き自己証明書をいよいよ作らねばならないと思い経って、発行手続きをしていたのです。

 

…余りにも交付通知が遅いので、私も半分くらい忘れていました。

 

早速窓口に電話をすると、「受け渡し日が9日以降になります」と言われたので、こういうのは早い方がいいと思い、今日の午前中に受け取ってきました。

 

 「Mr.地域の繋がりゼロ」を自負するこんな私でも、役所はちゃんと番号も用いて私の所在と存在を認知しているということに感動しましたね。

 

そうそう、今日の記事で何が言いたかったかというと、急に必要になった時に慌てて申請しても、発行され手渡されるのは1ヶ月ほど後になるから、なんとなく必要かもな…と思っている人はお早めに申請しておくといいと思うよ…ってことです。

 

何年も前に親から「免許証を取る気ある?」と聞かれたことの真意を、こんなタイミングで理解するとは思いませんでした…

 

何に取り組むにしても行動は早め早めが良いですね。

 

余談になりますが、ネットでまことしやかに囁かれる「個人証明に用いるカードの受け取りに個人証明できるものを要求される」という噂も本当でした。

しかも何故か交付通知書に同封してあった「利用可能な身分確認書類一覧」に何故か「マイナンバーカード」が書かれていました…

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どういうことなの…

これ、プログラムだったら情報参照先がループして役所の人がバグりそうですね…

 

ではここいらで少しおいとまして、私は口座を開設しつつPS5の抽選に行ってきます。次回の記事でお会いできれば幸いです。それでは。

 

~おまけ~


Rの男とジャンケン

 

閑話その1―私がパラレルワールドに転移してしまったかもしれない話

 いよいよ秋も半ばを通り過ぎ、一日、また一日と冬の息吹が増すのを感じる時期になりましたね。

皆さん、急に来た寒さに慌てて衣替えしてますか?

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 どうも、「ZOOM会議に突如現れ、デスゲームを仕掛ける世界線のRの男」です。モットーは『人権より混沌』座右の銘『二者択一』です。少し私のお話にお付き合いください。

 

 3日ほど前に書き始めた記事がかなり難航していまして、5000文字くらい書いてから「嗚呼こうじゃない」と4500文字くらい消すという人間国宝の陶芸家みたいなことを4、5回繰り返していて、これだと実りもありませんし、誰から見ても明らかに行き詰っているので気分転換でもしよう…と思い経ち、(記事数稼ぎも兼ねて)閑話というナンバリングで小話を挟むことにしました。"閑話"と銘打つくらいですから、大した量の話ではありません。よかったら見てください。

記念すべき(?)第一回目のお話は「私がある日を境にパラレルワールドの自分と入れ替わってしまったかもしれない」というお話です。

 

 話は私が高校生だった頃まで遡ります。僕の記憶が正しければ、「それ」が起こった日も、今日のように空気が秋めき、肌寒さを感じる日でしたから、恐らく9月から10月の間の出来事だったと思います。

 

 私は家からまあまあ離れた距離の高校に通っていましたので(電車で通学していたこともあり)、放課後に教室で友人と話しこんだりしているとしばしば帰りが遅くなってしまうことがありました。丁度その日もそんな風で、最寄りの駅に着いたのは19時少し前。駅舎の階段を降りながら「外はすっかり暗くなってしまっただろうか」などと懸念していたのですが、駅前を見てみると、奇妙にもまだ夕焼けが空いっぱいに広がっていたんです。私が友人と別れた時間と空のオレンジ色の具合が全く変わらなかったんですね。その時は「珍しいこともあるもんだ」くらいに思っていたんですが、駅から家に向かう道中も、一向に夕焼けの消える素振りがないんです。私も夕焼け自体は大好きで、夕焼け空に紫がかった雲が輪郭をはっきりとさせて浮かんでいたりすると、思わず写真を撮ったりするのですが、その日のそれは余りにも不気味だったので、なるべく直視しないようにして帰りました。

 帰路が折り返しに差し掛かった辺りで、もう一つ奇妙なことに気付きました。それは周りの景色をちゃんと見ないで帰っていたために、それまでの道中で気付かなかったことなのですが、大通りの信号に足止めされて、向かい側や対角の信号も見た時、街に人が全然いないことに気付いたんです。

 腐っても駅前からまっすぐ延びる大通りに沿って帰ってきていますし、時間帯のことを考えても、普段なら帰りの学生や社会人がもっと沢山歩いているのです。私が利用する駅も立派な駅舎を構えるくらいには利用者が多いところです。ですから、そこの通りに限って人が少ないなんてことはあり得ないんですよね。なのに人がいない。私を含めても3~4人しかいません。大通りだというのに、車も全然通りません。

 何かそういう奇妙な気付きのある日というのは、どことなく嫌な予感をさせるもので、私はもうとっとと帰ろうと思って足を速めました――本当は少し空腹で、帰り際に通り沿いのコンビニに立ち寄って何か食べようと思っていたのですが、それも止めて――。

 

 そうして大通りから外れて、曲がって、曲がって…愛しい我が家の前まで来たとき、私の頭上はすっかり黒が広がっていて、先ほど大通りを歩いていた時の長い長い夕焼けは空の何処にも跡がありませんでした。私としては夕焼けが不気味で仕方なかったので、(空が急に暗くなったように感じたことも一旦置いておいて)安堵し、制服のズボンに付けてある鍵に手を伸ばしたんですね。しかしいくら触っても手に金属の感触がない。慌ててポケットの中――それもズボンの後ろポケットだったり、ブレザーの内ポケットだったりをくまなく――やカバンの中を探しても、鍵がなかった。確かに私は学校で、ポケットに手を突っ込む際に鍵に触れているのを覚えているのです。もしかしたら帰路で落としたかもしれない…と考えると、とてもげんなりしました。家には入れない、鍵は失くす…。散々です。

 私は困り果てて、弟に連絡を取ったらば、幸いにも20時までには家に戻る…という返信がすぐ返ってきたので、私は家の前で待つことにしました。

 しかし時計を見るとまだ19時半頃。家の鍵が開くのは30分後。30分も寒い中空腹でいるのも嫌でしたから、考えも立ち戻って、少し行ったところのコンビニで自分と弟の分のホットスナックでも買おうと思い経ちました。

 服装はそのままで、カバンももう一度背負って、先ほどの通りに戻ると、夕焼けの時とは打って変わって、人も沢山歩いていました。改めて今日の帰路の静けさは何だったのだろう…と考えながら歩いていたのですが、足止めされた交差点のところまで戻った時、決定的に「いつもと違う」ものが目に飛び込んできました。

 その交差点の付近には某大企業の建物が何個か建っていまして、交差点の私が立っている位置からは、丁度本社の建物と、大企業らしくグループのロゴ状にくり貫かれた建物が見えるのです。

 夜になると、光の弱いライトがロゴを外からやんわりと照らすのですが、その日はロゴそのものが煌々と黄色に光っていたのです。側面に設置されていたはずのライトは一つもありませんでした。

 特に何かを意識するわけでもなく通る道でも、毎日通れば些細な変化に気付くことができます。ここのお店の立て看板が書き直されている、ここのお宅の外壁塗装が新調されている…など、例を挙げればキリがないけれど、私が生まれてから一度も、そのロゴが本人から――言い換えれば、くり貫かれた内側から――光っているところなど見たことがなかった。最近になってリニューアルされたという可能性がないことは間違いありません。そのロゴを象った建物が工事されているところを見ていないからです。

首を引っ込めていた奇妙が再びふつふつと湧いてきたきたので、私はコンビニに飛び込んで、適当にチキンを2袋買うと、それ以上何もせず――本当は帰路で自分の分のチキンは食べようと思っていたけれど、それも止めて――家に戻りました。

 

 私が戻る頃には弟も帰っていて、家の電気も付いていました。

 家の中に入ると、すぐ側のカウンターに私の鍵が置いてありました。本当は付けておいたはずの鍵が、どうしてカウンターの上に置いてあったのか。今考えても奇妙でなりません。

 その日はホッとしたので、もうそれ以上考えるのは止しましたが、後になってどうもその日のあれこれが気になって、ああだこうだと考えているうちに、私はある仮説に至りました。

 

あの日、『ロゴの光らない世界線』の私の精神と『ロゴの煌々と光る世界線』の私の精神は入れ替わってしまったのではないか。あの長い夕暮れの大通りは、いわば時の止まった空間、"世界線シフトトンネル"だったのではないか。「こちら」に元々いた私はその日、鍵を家に忘れて、学校へ向かってしまったのではないか――。

 

 今になって考えてみても、どうして持って行ったはずの鍵が家にワープしたのか、某企業のロゴが突然光るようになったのか、あの長い夕暮れは何だったのか、その答えは出ていません。上の仮説は正しいのか、私の痛い妄想に過ぎないのか、それを確かめる術もありません。

 ただ、今日も、その企業のロゴは煌々と光っています。

 

 読者の皆さんも、長い夕暮れを携えた駅前の道には気を付けてください。もしかしたら、貴方が気付かぬほど些細な違いの世界線に、そこをくぐってシフトしてしまうかもしれませんから。

 

 …さて、いかがだったでしょうか。ブログを始めた時、いつかこの話を書きたいと思っていたので、私にとっても丁度よい機会でした。今後も、何らかの理由で記事の更新が滞るようでしたら、こういった閑話を挟みながら、本丸を書き進めていきたいと思います。

 

 それでは皆さん、次回の記事でお会いできるのを楽しみにしております。またね。

 

~おまけ~

 

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ここに写ってるこの二人、

 

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かわいいアルヒ……?

 Amazonで「光るアヒルのベル」を見つけたので「ファンキーだなあ」と思って(何故か)購入したのですが…

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アルヒ(現物)

 帽子がアングリーバードのものが届きました。著作権的に大丈夫なんだろうか…

しかもこれ、ヒルをぶっ叩かないと光らないという謎の仕様になっており、


Rの男vs全く光らないアヒルベル

 

 動画の通り、かなり強くぶっ叩いてるのに全く光りません…

 買ってすぐ試した時は普通に光ったので、故障ではないと思うんですけど…

動画も完全に『計画に失敗して八つ当たりするサイコテロリスト』になってますし…

 

 リンク貼っときますので気になったら買ってみてください…

 

 

AとBとそれからXとY/Nintendo Switchのゲームの話

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 や風がいよいよ秋めき、神無月も始まりまして、日本津々浦々の神々も伊勢に集まらんとする今日この頃、皆々様はどうお過ごしでしょうか。

ご無沙汰しております。Rの男です。おおよそ二ヶ月ぶりですね。

惰性にかまけにかまけ約七十日も更新をサボってしまいました。これは時間にして1680、分にして100,800、秒にして6,048,000もの時を無碍にしてしまったということです。

読者の皆様はこの6,048,000秒の間にどのようなことをしましたでしょうか。今年は外出自粛のムードと其れに配慮する諸イベント主催側の判断から、季節を感じるイベントが一切合切抜け落ちてしまって、どうしても「らしい」夏を過ごせませんでしたね。海の蒼を拝むことも、潮騒を聞くことも、花火を見上げることも、祭囃子にふらりと惹かれることのそのどれもがない夏というのは、私の人生で初かもしれません。来年は「らしい」夏が過ごせることを切に祈っています。

さて話は変わりまして、私が今朝、我がブログのトップページに飛んだ時の話になります。

昨日の夜頃から「何の記事を書こうかなあ」と考えていたんですが、記事のタネになりそうな事柄はぼちぼちあっても、一つの記事まで育てられそうなテーマがなかったもので、トップページとにらめっこでもしながら考えようなんて思っていたのですが…

いざトップページに飛んだらば、「あなたへのお知らせ」の欄に2件通知が来ていたんですよね。

「あれ?サイト運営会社から仕様変更のお知らせかな?」くらいに思って開いてみたら…

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コメントが来ていた…

本来であればスターやコメントがつくと登録したメールアドレスに通知が行くはずなのですが、何故かこれをお知らせするメールが来ていませんでした。結果的にわざわざコメントしてくださった方を61日も放置する結果に…。大変申し訳ございません。この記事を以て謝罪に代えさせていただきます。

 

コメントの内容はポケモン以外にやってらっしゃるゲーム等はございますか」と言った旨の内容でした。記事ネタに困っていたタイミングで天啓のようなコメントをくださったことに感謝しつつ、今日の本題に移りたいと思います。

 

 

 然ですが、Nintendo Switchには自分や友人の遊んだゲームの履歴を覗くことができる機能があります。

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こういうやつです(画像は任天堂公式サイトより)

「どんなゲームで遊んだか」という情報だけでなく、「何時間プレイしたか」という情報も閲覧することができます。昨今のゲーム――特にSwitchでリリースされているゲームは「皆で遊べる」がテーマになっているものが多いですから、友人と同じゲームで遊んでいることに気付いて「今度一緒にやろうぜ」となったり、「みんなこのゲームをやっているから、私もちょっとやってみようかな」となったりして、これはゲームにおける「横の繋がり」を強化するのにうってつけの機能と言えるでしょう。

 

私のプレイ履歴は以下の通りです。

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恥ずかしいのであっちゃこっちゃ伏せました

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こいつ、ポケモンしかやってねえ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

昨今の小学生、それも「ゲームソフトはクリスマスと誕生日にしか買ってもらえない」って子でも、もうちょっと色々やってるんじゃないでしょうか。

 

いえ、別にお金が無さ過ぎてポケモンしか買ってない(買えない)んじゃありません。

 

そもそもSwitchはオンラインサービスに加入していると無料で遊べるゲームが何点かありまして、例えばファミコンスーファミのゲームで遊べるやつとか、

www.nintendo.co.jp

少し前に話題になった落ち物バトルロイヤル「テトリス99」、

www.nintendo.co.jp

つい昨日プレイが解禁されたマリオ35周年記念作品「スーパーマリオブラザーズ35」、

www.nintendo.co.jp

謎(?)のバトルロイヤルゲーム「スペルブレイク」

www.epicgames.com

などなど、遊ぼうと思えばいくらでも遊べるゲームがてんこ盛りなんですが、これらのゲームが一切合切入っていないのには、ちょっとした理由があります。

 

そもそも私がSwitchを購入した理由は「ポケモンの新作が出るから」でした。この記事の冒頭に貼った画像を見ても分かる通り、私のSwitchはliteバージョンで、しかもポケモンエディション(という呼称で合ってましたっけ?)です。

実を言うと私が所有しているSwitchとは別にもう一台Switchがあって、私の弟と一緒にやるようなゲームは全部そっちに集約してあるんですね。

 

そっちのSwitchでは(気まぐれで)スマブラをやったりするんですが、それはオンラインで対戦をやったりしている訳ではなく弟と対戦するくらいで、その上私の弟が強すぎて歯が立たないので、遊んでいるというよりかは遊ばれているという感じですね…。

私の実力ではCPUのレベル9に辛勝するのでやっとです。(余談ですが、生まれてからずっとRPGばかりやってきた弊害なのか格闘ゲームやリアルタイム入力が多いゲーム、もっと言うとボタンを8個くらい使うゲームは自分でもビックリするくらい苦手で、対戦系ともなるとちっとも勝てません。こういうのって練習あるのみなんですかね?)

 

私自身、かなり色々やりたい(やってみたい)性格で、同時に完遂せず投げてしまうことが多い性格なので、一気に沢山の事柄を始めて、全部六割強で未遂のままフェードアウト…(こういうのを「エターナる」って言いますよね)みたいなことが今までに多々あったのです(ゲームに限らず創作行為なんかでも)。よくよく考えてみたら、このブログの更新頻度の変遷なんかにもその傾向が色濃く出ているんじゃないかと思います。

そういうのに陥るのを避けるためにやってるゲームを絞っている…と書くと、なんか言い訳みたいに聞こえますねこれ。

 

あ、ゲームと言えば家庭用ゲーム機…という先入観から視野が狭くなって、ソーシャルゲームとかに全く触れていませんでしたね。

といってもソシャゲ、パズドラとコトダマン、それから幻獣物語2くらいしかやっていませんで、あんまり話の膨らみもないですね…

pad.gungho.jp

kotodaman.jp

genmono2.jp

 

こうやって振り返ってみると、自分の流行を追わない姿勢が明らかに裏目に出ていますね…「あつ森」、今考えれば発売初日に買っておけばよかったなあ。後悔先に立たずとはよく言ったもんですね。「我が道を往く」ってスタイル、現代には酷く向いていない…

 

あ、そういえば、苛烈な争奪戦に勝ち残ることができれば我が家にもPS5が来るかもしれませんので、それが来たらフロムゲーとかにも挑戦してみたいですね。

 

コメントをくださった方が知りたがっていたゲームの方向性が果たして「家庭用ゲーム機で遊べるゲーム」の話だったのか分かりませんで、とりあえずそういう体でSwitchの話ばっかりしてしまいましたが、もし名作フリーゲームとかそっちの方面の話でもよろしければ、それはそれで別個の記事で滔々と語りたいと思います。タイトルは「WとAとそれからSとD」とかかな…

 

ポケモンスマブラしかやっていないことがバレたところで、今回の記事を締めたいと思います。それでは次回の記事でお会いしましょう。ばいちゃ。

 

 

ポケットモンスター ソード -Switch

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あつまれ どうぶつの森 -Switch

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記事を八つ犠牲にしてキミは何をしていたの

 

 

――時はおよそ2ヶ月前に遡ります。

 

 

hazamazakki.hatenablog.jp

 

 

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笑っちゃうね

10記事目をお祝いし、次の区切りを目指そうとしていた筈の男が、まさか11記事目にして沈黙するとは、この時は誰も予想していなかったでしょう。当人である私も予想していませんでした。

 

さて大方の予想通り、己が抱える惰性の膨張に対して膝をついたというのが月にして2ヶ月、記事にして8記事分(1週間1記事と計算して)に渡る沈黙の理由なのですが、決してネタ切れで書かなかったというわけではありません(本当ですよ!)

本当ならば

  • 虚構(フィクション)と現実(リアル)の相互関係についての考察
  • 高尚でありたいという思考性と相反する本質の話
  • DLC解禁後のポケモン剣盾ランク戦の環境変化と対策

などについて書こうと思っていたのです。しかしながら祖母の手術の為に県を跨いだり、謎の病気で39℃の熱が出たり、思考が極端にネガティブな方向へ向かう精神的問題(周期的に発生する)が生じたりしてしまい、記事として皆々様にお見せできるまでに至りませんでした。恥じ入るばかりです。

表題に準えるならば、私は記事を八つ犠牲にして特に目立ったことは何もしていないと言えますね。

 

自分が惰性に負け、甘言に心身を委ねたということをここに記しながら訓戒にしたいと思います。

 

典型的な生存報告の記事になっちゃいましたね。

本当に余談なのですが、一~二ヶ月おきくらいに生存報告するブログやサイトを見かけると、"終焉"を感じますよね。

私の場合は常日頃から考えていること、記事にしようと思っていることがもう終焉的方向性("アポカリプティック"と読んでください)なので、ブログそのものが"終焉"となり「終焉²(アポカリプティック・アポカリプス)」にならないように気を付けながら、次の記事の草稿でも書こうと思います(何言ってるんだか)。

 

これを記事と呼べるのか…?ということはさておいて、次回の記事でお会いしましょう。ほんじゃまた。